前153年開化五年春二月丁未朔壬子に「葬大日本根子彦國牽天皇于劒池嶋上陵」と6年も後に前天皇を埋葬している。そして、翌年の前152年開化六年春正月辛丑朔甲寅の「立伊香色謎命爲皇后」と政権交代が起こっている。
しかし、やはり『舊事本紀』は「七年春正月伊香色謎命立為皇后」と一年のズレがある。これは、孝元天皇を「継承した」王家と、「継承しなかった」王家が有ることを示している。しかも、「六年春正月辛丑朔甲寅立伊香色謎命爲皇后」の日干支は九州(吉備)の暦、辛丑朔は12月30日で、伊香色謎が皇后である。すなわち、伊香色雄が最高実力者、吉備小国の少彦男心が倭迹迹姫に婿入りして比古布都押之信と呼ばれた。
ズレがあるのだから首都は春日と違う場所の朝廷、「しこぶちさん」の安曇川近辺なのだろう。根子の名を引き継ぐ兄磯城・十市縣主→纏向朝廷(十千根大連)と、もう一つ、磯城彦葉江の名を引き継ぐ弟磯城の、磯城朝廷である。
『舊事本紀』は「八年春正月以大祢大綜杵命為大臣武建命大峯命並爲大祢」、「二月伊香色雄命爲大臣並物部連公」とある。前151年1月に大綜杵が大臣になったが、2月に伊香色男が別の朝廷の師木の大臣になったのだろう。大綜杵は春日率川宮大臣、伊香色雄は磯城瑞籬宮大臣と『天孫本紀』で記述され、伊香色雄は師木の大臣だった。すなわち、大臣を持たない王朝を含めて3王朝分立状態。
前98年六十年夏四月丙辰朔甲子の「天皇崩」も九州の暦で丙辰朔は3月30日である。すなわち、前158年に皇位継承したのは大毘古で、大毘古は前98年冬十月癸丑朔乙卯に大毘毘を「葬于春日率川坂本陵」と葬って、朝廷を統一したようだ。大毘古は旦波の大縣主を意味し、旦波(丹波)は道主が跡継ぎ、その婿が垂仁天皇である。
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