崇神六年の「託渟名城入姫」は崇神六〇年に武諸隅が大連(天皇)になって6年目の崇神六十五年、前33年と考えられる。崇神七年秋八月癸卯朔己酉の「祭倭大國魂神之主」の候補に前34年や前29年があった。前29年は垂仁元年で、首都が変わり、祀る神も変わった年である。前33年頃に纏向宮の建設が始まり、豐鍬入姫が伊勢の女王となったのは垂仁六年、狹穗姫死後の可能性が高く、垂仁十五年に皇后になった。
それに対して、前89年崇神九年春三月甲子朔戊寅の記事の「盾八枚矛八竿祠墨坂神祠大坂神」や夏四月甲午朔己酉の「祭墨坂神大坂神」は九州や吉備の暦である。九州の暦は中国の影響下の暦で中国は日干支の暦の最初の記事は『史記』の前179年、「孝文本纪二年十一月晦日有食之」が最初である。日本の孝元天皇の頃からで、使用量から考えても、朔日や晦日は日本からの輸出、高千穂宮からの輸出と考えられる。琵琶湖の津には神様達が集まるから「ついたち」、神様が居ない九州や吉備は一日から数えて「三十日」である。すなわち、中国は晦日イコール朔日、晦と朔が入り混じる原因なのだろう。
前88年崇神十年秋七月丙戌朔己酉は正しい日干支で、「猶不受正朔」天皇が正しい朔を使っていないと怒っている。正しい日干支で天皇が怒るのだから、朔日を朔と使用する天皇は朔日を晦と使っている氏族に怒りを向けている。その結果、崇神十年九月丙戌朔甲午の九州の日干支を使う「以大彦命遣北陸武渟川別遣東海吉備津彦遣西道丹波道主命遣丹波」の四道を攻めた。北陸と吉備と東海と丹波道が九州・吉備の暦を使っていて、天皇は琵琶湖南部の人物である。
そして、琵琶湖南部にいる天皇は正しい日干支の崇神十年冬十月乙卯朔に「詔群臣曰今返者悉伏誅畿内無事」と勝利宣言を、前87年、九州の暦の崇神十一年夏四月壬子朔己卯に「四道將軍以平戎夷之状奏焉」と九州の暦を使う地域からの報告があった。負けても、記録を持つのは高千穂宮なので、記録は九州の暦なのだろうか。
年候補
癸卯8月朔 -158 -91 -34 -29
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