2025年8月18日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 崇神天皇2

  崇神七年秋八月癸卯朔己酉の「倭迹速神淺茅原目妙姫穗積臣遠祖大水口宿禰伊勢麻績君三人共同夢」、「大田田根子命爲祭大物主大神之主亦以市磯長尾市爲祭倭大國魂神之主」と大田田根子に大物主を祀らせろと占った。

ところが、前91年崇神七年十一月丁卯朔己卯の「即以大田田根子爲祭大物主大神之主」はこの年にも、それ以外にも相応しい年が無い。前90年の九月朔日が丁卯朔であり、それなら、前90年崇神八年冬十二月丙申朔乙卯の「天皇以大田田根子令祭大神」が一連の流れになる。変えた原因は崇神六年前92年に天照大神と倭大國魂二神を豐鍬入姫と渟名城入姫に託した記事を挿入したためだろう。豐鍬入姫と渟名城入姫は崇神朝末年が相応しく、大國魂を祀るのが市磯長尾市とするために早めたのだろうか。長尾市は垂仁朝で活躍している。丁卯10月晦が前23年、垂仁七年、長尾市が野見宿禰を呼んだ年だ。

1年のズレがまだ続いている。『舊事本紀』の政権と『日本書紀』の政権の統合は、崇神十年の「猶不受正朔」のため、四道侵攻を行うまで、待たなくてはならなかったようだ。大彦が北陸、武渟川別が東海、吉備津彦が西道、丹波道主は丹波、『古事記』は西道を記述しない。それは『古事記』の崇神天皇は吉備出身だったからなのだろう。これら、四道は暦が違っていたことを示す。『二中歴』には「年始五百六十九年」に継体元年(517年)が始まったと記述される。すなわち、前53年、崇神45年に元年が始まった。

前90年崇神八年夏四月庚子朔乙卯の記録の「以高橋邑人活日爲大神之掌酒」は正しい日干支である。活日は御眞木入日子と御眞津比賣の子の伊久米伊理毘古と無関係とは考えられず、伊久米伊理毘古は琵琶湖北部の皇子と考えられる。長浜には高橋や高月があり、天理は大国魂大神を祀る大和神社、創建は渟名城入姫で崇神朝末期の出来事だ。

 

年候補

癸卯8月朔 -158 -91 -34 -29 

丁卯11月朔 -333 -240 -54 4 71

丁卯10月晦 -204 -147 -80 -23 

丁卯朔 -1005月 -958月 -909月 -8512月 -793

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