2025年7月18日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神武天皇

  辛酉年春正月庚辰朔の日干支、この紀元前660年1月朔日は正しい日干支で「天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」と神武天皇は即位した。そして、翌年の春二月甲辰朔乙巳に「天皇定功行賞」と論功に沿って官位・賜姓を行った。新政権誕生が間違いの日は有り得ないだろう。

四年春二月壬戌朔甲申の「詔曰我皇祖之靈也自天降鑒光助朕躬今諸虜已平」の記事は即位前の即位宣言で、「朝廷4年」記事としては奇妙である。朔の日干支を調べると、孝昭天皇即位前年の前476年が相応しい。孝昭天皇・和知都美は大祢を継いだ淡道の御井宮の王、御上神社で祀ったのだろう。葛木天皇なら、大臣を記述する。

神武天皇は神倭王朝、綏靖天皇は神王朝なので、神国は三国、君子国の朝廷で、伊邪那岐と伊邪那美を祀る根国の朝廷だった。伊邪那美が葬られた伊根と伊邪那岐が坐す多賀がある彦根なのだろう。そして、和知都美は天照大神を祀るため伊勢遺跡のある場所の御井に宮殿を建て、そこに入って、宣言したのが「今諸虜已平」なのだろう。

天皇が卅有一年夏四月乙酉朔に「登腋上嗛間丘・・・秋津洲之號」と秋津の地名の命名説話が記述される。腋上は奧津余曾が実質天皇の大臣になって、首都だった場所である。大臣賜姓者は天皇なのだから、首都を置く場所を視察するのは当然で、その日干支は前506年を指していると考えられる。秋津は吾の国()の津、葛川の東の琵琶湖の津を意味し、奈良県の「あきつの」は山の中である。

『日本書紀』は前629年卅有二年、『舊事本紀』は前619年四十有二年の春正月壬子朔甲寅、「立皇子神渟名川耳尊爲皇太子」が記述される。立太子は倭国の王位継承がある王の32年にあったことを示すと論じてきた。倭国の朔の日干支は晦なので、12月晦が壬子の日干支を調べると、『舊事本紀』が正しかった。倭国の初代王の在位40年目の1月2日に新王が即位したことを示すのだろうか。

前585年七十有六年春三月甲午朔甲辰の「天皇崩于橿原宮」の記事は、前647年か前621年の記録だろうか。前667年が立太子なので13歳、前647年崩なら33歳、前621年崩なら59歳である。天皇は天日方奇日方が継承したと考えられ、別名が阿多の津の尼の阿田都久志尼、久志は櫛川だろう。史書の兄弟関係が親子、親子関係は世代の関係で、鞴五十鈴の娘婿が2代目の阿田都久志尼、次世代が娘の五十鈴依姫で婿が手研耳(恐らく神倭彦)、その次の世代の阿田氏の娘が渟名底仲媛で婿が彦湯支だろう。

 

年候補

壬戌 2 朔 -631 -600 -507 -476 -414 -383 -290 

乙酉 4 -630 -537 -506 -413 -320 -289 -227 -196 -170 -103

甲午 3 -647 -621 -554 -497 -430 -368 -311 -244 -187 -120 -63

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