神武東征は曾都毘古の記録の流用のみで無く、尾張氏や和珥氏や物部氏などの東征も含まれていたようだ。
神武即位前紀戊午年の六月乙未朔丁巳の「軍至名草邑則誅名草戸畔者」記事は建甕槌の子が紀伊名草姫を妃にしているので、紀元前446年孝昭天皇の時代が相応しい。孝安天皇の子と考えられる、建斗禾の妃の中名草姫の兄が紀伊國造智名曽なので、名草邑は木国になっている。この説話を、師木侵攻記事に当て嵌めた。この年、余曾多本毘賣を皇后にして、朝廷を開いている。神武即位前紀戊午年の九月甲子朔の「天皇陟彼菟田高倉山之巓」の八十梟帥との戦乱記事も前446年、八十梟帥は野洲の八国の十人の将軍の事で、それを打ち破ったのだろう。
神武即位前紀戊午年の秋八月甲午朔の「天皇使徴兄猾及弟猾者」は紀元前482年、孝昭天皇即位前の記事が相応しく、まず、大津(宇治川)を手中にした。神武即位前紀戊午年の冬十月癸巳朔の「天皇嘗其嚴瓮之粮勒兵而出」の記事も前482年の兄猾との戦いの記事の続きが相応しい。神武即位前紀戊午年十一月癸亥朔の「皇師大擧將攻磯城彦」の記事も同じく前482年に師木を手中に収めた。師木の天皇と葛木の物部氏が賜姓した大臣との戦いである。
那賀須泥毘古の甥の宇摩志麻治は神武元年に足尼、翌年に政大夫に就いているので、元年には二十歳以上、少なくとも13歳以上である。神武即位前紀戊午年の十有二月癸巳朔丙申の「皇師遂撃長髄彦・・・時忽然天陰而雨氷」の記事は雨氷、雪が雨に変わる季節なので1月の記事を挿入しており、紀元前688年が相応しい。饒速日達の記録なので、神武天皇の親の世代の説話と考えられる。
神武即位前紀の己未年春壬戌朔の「詔日天孫饒速日尊兒」が前662年1か3月なら、20代の年齢になっていて、理に適う。すると、前663年の五月丙寅朔の五瀬の戦死も物部氏の都合の悪い説話だったことが解り、饒速日の子の戦死だった可能性がある。神武即位前紀戊午年の十有二月癸巳朔丙申の「皇師遂撃長髄彦」には五瀬の戦死と「長髄彦即取饒速日命之天羽羽矢一隻」のように饒速日が那賀須泥毘古と争った記録が同時に記述される。
日干支を持たない『古事記』の大国主系と持つ物部氏、大神君系の神武天皇達だ。
年候補
乙未 6月朔 -570 -513 -446 -420 -389 -322 -296 -265 -203 -136 -79 -12 15 46 139 263 325 356 382
甲午 8月朔 -663 -606 -539 -513 -482 -420 -296 -203 -172 -79 15 46 139 232 263 325 356
甲子 9月朔 -663 -570 -539 -446 -420 -353 -322 -296 -260 -229 -172 -136 -105 -12 15 82 139 206 232 263 325 356
癸巳 10月朔 -663 -606 -539 -482 -420 -296 -203 -172 -146 -105 -79 -22 46 139 232 263 289 356
癸亥 11月朔 -663 -606 -539 -482 -420 -353 -296 -229 -172 -105 -43 15 82 139 206 232 263 325
癸巳 12月朔 -570 -446 -420 -379 -353 -322 -296 -229 -105 -43 15 82 139 206 263 325 392
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