2025年7月16日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神武天皇即位

  神武即位前紀の己未年春二月壬辰朔の「因改號爲磐余」と磐余に改名した記事は、393年に曾都毘古(品陀和気)が磐余に住居を造って、実質的に最高権力者になった年なのではないだろうか。他に磐余に関係した場所はなく、神武天皇の磐余宮は履中天皇の磐余若櫻宮のことと考えられる。曾都毘古は翌年に薨じ川内惠賀へ葬られている。神武天皇は神倭磐余彦ではなく天皇の姪、子が皇后の姪を妃にする、皇室の一族の神倭彦なのだろう。

『舊事本紀』で、己未年春二月辛卯朔庚辰の道臣命の記事は197年が相応しく、神功皇后と武内宿禰と中臣烏賊津連、大三輪大友主君、物部膽咋連、大伴武以連が熊襲と戦っている。三月辛酉朔の「自我東征於茲六年矣」記事も大伴氏の記録で、357年に充てれば若帯日子が355年に薨じ、大伴氏が曾都毘古の後ろ盾になった意味合いを持つ。

那賀須泥毘古と饒速日の戦いの日干支すら、正しくなかったということは、『舊事本紀』の日干支も『日本書紀』の日干支が基準だったことを示した。神武天皇火火出見・小椅君も日干支を知らなかったようだ。火火出見が蹈鞴五十鈴媛と遭遇した、庚申年秋八月癸丑朔戊辰に「天孫當立正妃政廣求」の記事から、記録に結び付けることが始まった。

欠史八代と言われるように、開化天皇までの記事は少ないのに、神武天皇だけは記事が多かった。ところが、神武即位前紀は神武天皇の事績では無かった。だから、神武天皇の記事も欠史八代と同程度の記事内容になるので、相応しい記事内容である。其々の氏族の建国神話を集めたから、神武天皇の説話が膨大になった。

前661年八月癸丑朔戊辰、「天皇當立正妃・・・媛蹈鞴五十鈴媛」によって、神武は天皇になった。しかし、九月壬午朔乙巳に、「納媛蹈韛五十鈴媛命以爲正妃」と重複している。この日干支は間違いの日干支、恐らく、藝志美美が伊須氣余理比賣を妃にしたと考えられる前635年が妥当と考えた。前後の前692年も前568年も五十鈴媛に無関係な時期で、前635年が一番相応しい。

候補は年代幅が広いので、略す。

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