2025年7月9日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 暦の変遷

日付が解っている、中国の歴史の始まりは『漢書』の紀元前205年11月の高祖三年「冬十月甲戌晦日有食之」が最初である。『史記』の出来事としては前181年二月の呂太后「七年正月己丑日食晝晦」だ。

それまでの記録は、王の在位で求められ、重なりや空白が有れば、正確とは言えない。しかし、日本以外の史書は95%以上が正しい日干支、『漢書』は97%以上が正しい日干支で、史書の内容が正しい証拠となる。中国の史書は臣従する倭国に対して、日本国は記述していないが、孔子達は君子国の王を尊敬しており、君子国は『山海經』に日本列島の中の存在と述べた。丁度、孔子が存在した頃の孔子が認める君子と違う君子国王ならば、『山海經』は何か説明が必要になるが、同一対象だから説明しない。

君子国王が朝廷を持ち、尊敬される君子国王が「尊敬される立派な人物だけど、文盲」などとは考えられない。何らかの文字を操り、暦を残すことは可能であり、それらしい文字(神代文字)が残っている。実際、『日本書紀』や『舊事本紀』には日干支を使った日付が残されている。ところが、『古事記』には日付が残されていないということは、『古事記』は大臣という行政官、『舊事本紀』は足尼・大祢・大連という宮で神(皇后)のお告げを聞く禰宜の長官を扱ったことの違いである。

従って、神を祀る神の宮に記録を残す人物がいたことが解る。天皇は皇后の宮へ婿入りして、皇后の家系が皇位を継承する。その為、皇后の宮に記録が有るのではなく、天照大神を祀る宮や大國魂神を祀る宮か物部氏の宮の石上神宮に記録があったことを示している。その記録を、おそらく、倭国の入鹿が倭国の宮殿に記録を集め、九州に遷され、九州の朝廷が711年に滅びた時、大和の平城朝に戻り、『日本書紀』を完成できたのだろう。鸕野皇女が遠智か美濃津子の娘か解らないように、藤原宮より前の記録、天智天皇の記録までは九州にあったと考えられる。

ただし、『日本書紀』の神武天皇の彦火火出見が皇太子になった時、「太歳甲寅」と記述されるだけで、日干支を知らなかった。日干支を知っていたなら、記念すべき日を記録できないはずがない。天皇に即位してから、日干支と事績が対応できるようになったと考えられる。

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