前447年、孝昭廿九年春正月甲辰朔丙午の「立世襲足媛爲皇后」の記事は、正しい日干支で、世襲足媛が皇后になった。すなわち、『日本書紀』の大臣が居ない朝廷と、出石心大臣・瀛津世襲大連が居る朝廷(最大3朝廷)に分裂したことを意味する。兄倉下の政権と弟倉下の政権(あるいは、物部氏の政権も)に。
神武天皇即位前紀戊午年六月乙未朔丁巳の「軍至名草邑則誅名草戸畔者」の記事は孝昭三十年前446年の記録で、出雲醜の勢力が、まだ残っていたようだ。日臣が名草戸畔を滅ぼして、名草戸畔を襲名して、木国の天道根の後裔の伊勢主の娘と建甕槌の子の豊御氣主と姻戚関係になったと考えられる。伊勢主は天道姫の末裔の天忍男の分家筋である。同じく、神武天皇即位前紀戊午年九月甲子朔の「天皇陟彼菟田高倉山之巓」の記事も前446年、高島の出雲醜朝廷が崩壊し、高倉山で勝利宣言を行ったのだろうか。
そして、翌年の前445年三十一年春正月に「瀛津世襲命爲大臣」と物部氏の政権が皇位を継承した。『日本書紀』は大臣の賜姓を記述していないので、和知都美とは別の朝廷が存在した。和知都美の娘も「はへ」、『日本書紀』の皇后は「一書云」で磯城縣主「はへ」の娘や姪が安寧天皇から孝安天皇まで続く。しかも、孝霊天皇の皇后も磯城縣主の娘である。すなわち、磯城縣主は何時も皇后の父、三百年間にわたって、皇后の父、すなわち、婿が「はへ」を襲名した天皇だった。大臣を持たない「はへ」の朝廷と、大臣を持つ、懿徳・孝昭の朝廷である。
孝昭六十八年春正月丁亥朔庚子の「立日本足彦國押人尊皇太子」の記事は倭国王の王朝交代の記事だろう。そして、393年孝昭八十三年秋八月丁巳朔辛酉の「天皇崩」によって、孝昭朝は終わった。
年候補
乙未6月朔 -570 -513 -446 -420 -389 -322 -296
甲子9月朔 -663 -570 -539 -446 -420 -353 -322
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