綏靖元年春正月壬申朔己卯の「神渟名川耳尊即天皇位」は前648年・前581年・前524年に当たるが、前581年で間違いないようだ。『舊事本紀』も同じ日干支で、『舊事本紀』は安寧天皇の即位日を記述しない。それは、安寧天皇の彦湯支が綏靖朝で足尼に就いたのが前581年だったからと考えられる。足尼は物部氏にとっては天皇と同等だったのだろう。
前557年綏靖廿五年春正月壬午朔戊子の「立皇子磯城津彦玉手看尊爲皇太子」は「立皇子神渟名川耳尊爲皇太子」と同じで、倭の王が即位25年後の1月7日にその王朝が変わったと理解した。
安寧元年冬十月丙戌朔丙申の「葬神渟名川耳天皇於倭桃花鳥田丘上陵尊皇后曰皇太后」は前548年で正しいようだ。実質の安寧即位は前546年安寧三年春正月戊寅朔壬午の「立渟名底仲媛命爲皇后」だ。2年間の空白中に沼河耳が統治した可能性が高い。そして、前546年に彦湯支・縣主波延が即位したと考えられる。
前538年安寧十一年春正月壬戌朔の「立大日本彦耜友尊爲皇太子也」も倭王朝の王の即位11年目の1月朔日に王が変わったのだろう。皇太子は天皇が即位した時すでに決まっていて、即位30年後に皇太子を決めていては、とっくに政変が起こる。
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