2025年7月21日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 綏靖天皇・安寧天皇

綏靖元年春正月壬申朔己卯の「神渟名川耳尊即天皇位」は前648年・前581年・前524年に当たるが、前581年で間違いないようだ。『舊事本紀』も同じ日干支で、『舊事本紀』は安寧天皇の即位日を記述しない。それは、安寧天皇の彦湯支が綏靖朝で足尼に就いたのが前581年だったからと考えられる。足尼は物部氏にとっては天皇と同等だったのだろう。

前557年綏靖廿五年春正月壬午朔戊子の「立皇子磯城津彦玉手看尊爲皇太子」は「立皇子神渟名川耳尊爲皇太子」と同じで、倭の王が即位25年後の1月7日にその王朝が変わったと理解した。

安寧元年冬十月丙戌朔丙申の「葬神渟名川耳天皇於倭桃花鳥田丘上陵尊皇后曰皇太后」は前548年で正しいようだ。実質の安寧即位は前546年安寧三年春正月戊寅朔壬午の「立渟名底仲媛命爲皇后」だ。2年間の空白中に沼河耳が統治した可能性が高い。そして、前546年に彦湯支・縣主波延が即位したと考えられる。

前538年安寧十一年春正月壬戌朔の「立大日本彦耜友尊爲皇太子也」も倭王朝の王の即位11年目の1月朔日に王が変わったのだろう。皇太子は天皇が即位した時すでに決まっていて、即位30年後に皇太子を決めていては、とっくに政変が起こる。

前511年安寧卅八年冬十二月庚戌朔乙卯の「天皇崩」も前511年で間違い無さそうだ。前後は綏靖朝4年の前578年と孝昭朝30年の前454年で相応しくない。崩御日も安寧天皇は記述されたが、綏靖天皇は記述されていない。綏靖天皇は記録できない都合があった。おそらく、神武天皇の甥にあたる阿比良比賣の子の多藝志美美と、神八井と日子八井、沼河耳と渟名底仲媛の婿の彦湯支の皇位争いの結果の不記載だろう。

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