2025年7月11日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神武天皇即位前1

  神武天皇は阿多小椅君と考えられ、阿多君の祖の火照の子である。小椅君が神武天皇彦火火出見と考えられる。『古事記』の神武天皇の皇后が『日本書紀』の綏靖天皇の皇后なのだから当然だ。阿多君の生まれた場所は天祖が天降り、領地になって一百七十九萬二千四百七十餘歳過ぎたと記述される。この詳しい数値は意味ある数値と考えられ、私は、数値的に日数と考え、約5千年と理解するのが合理的だと感じた。歳は干支なのだから、干支は年干支と日干支しかない。日干支を知らない、火照と小椅が東征して、小椅が即位するまでの間に、神武前紀のような日干支がある記録を残せるはずがない。神武即位前紀に乙卯年や戊午年などを記述するのは、記録の干支と異なる、既に年干支が一般に記録された時代の記録と考えるべきなのだろう。神武前紀の日干支は後代の記録を東征の記事に入れ込んだと考えるべきだ。

神武即位前紀甲寅年の冬十月丁巳朔辛酉の「汝誰也對曰臣是國神名曰珍彦」の記録は、武内宿禰の義父の説話である。従って、武内宿禰は133年に大臣になっているので、109年が相応しく、東征ではなく、女王国の東の「拘奴國」への西征の記事だろう。穴門からでは「拘奴國」が待ち構えているので、関門海峡から小倉の宇佐へ向かったのだろうか。関門海峡を進むために珍彦の力が必要だったと考えられる。

十一月丙戌朔の「至筑紫國崗水門」は192年、和迩君が香椎に来た記録だろう。卑弥呼(壹国王夏磯媛)を女王に指名したのがこの和迩君と考えられる。192年ならば「桓靈」の後に当たる。

十二月丙辰朔の「至安藝國」記事は166年が相応しい。初代曾都毘古が安芸の中日賣に婿入りして安芸王の帯中日子になったと考えられる。

春三月甲寅朔の「徙入吉備國」の記事は353年あたりと考えられる。この年に「紀角宿禰於百濟」と曾都毘古を加羅へ迎えに行って、それに応えて、曾都毘古が吉備に入ったもようだ。

春二月丁酉朔の「到難波之碕」の記事と三月丁卯朔の「遡流而上徑至河内國」の記事と五月丙寅朔の「軍至茅淳山城水門」の記事は356年に河内から山城への曾都毘古の侵攻記事に相応しい。そして、四月丙申朔の「乃還更欲東踰膽駒山」は382年に相応しく、395年に意乎巳が退位して大別が大連になっている。神武東征は襲名した曾都毘古の東征だった。そして、『古事記』では、394年に品陀和気(曾都毘古)が薨じているのは偶然ではないだろう。

年候補(参考までにその他の同じ日干支の候補を明記した)

丁巳 10月朔 -636 -543 -512 -450 -419 -393 -326 -295 -233 -202 -109 -16 16 42 109 166 202 233 290 326 352

丙戌 11月朔 -636 -579 -512 -455 -450 -393 -326 -269 -202 -176 -145 -52 42 166 192 259 290 316 383 440 

丙辰 12月朔 -636 -512 -450 -393 -326 -269 -202 -145 -16 42 109 166 233 290 352 

甲寅  3月朔 -666 -640 -609 -547 -516 -423 -330 -299 -206 -175 -113 -82 12 105 136 198 229 255 322 353 

丁酉  2月朔 -637 -513 -487 -446 -420 -389 -327 -296 -203 -172 -110 -79 -53 15 72 108 139 196 232 258 325 356 382 

丁卯  3月朔 -663 -637 -570 -513 -446 -389 -384 -327 -260 -203 -136 -110 -79 -12 46 108 232 325 356 

丙寅  5月朔 -663 -637 -596 -570 -539 -513 -446 -322 -260 -203 -136 -79 -12 46 51 108 175 232 299 325 356

丙申  4月朔 -637 -570 -513 -446 -420 -389 -203 -110 -79 -53 -12 15 46 72 139 196 263 325 382 

0 件のコメント:

コメントを投稿