2018年6月1日金曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 海外史書1

  前章では日本の3史書の違いや鏡・甕棺などから、国譲り・天降の伝承を検証したが日本に関する資料が中国や朝鮮に残っているので海外史書をもとに古代史を俯瞰してみよう。

  後代の室町時代の史書であるが『遼史 第三十八卷 志第八 地理志二』に「辰州奉國軍節度 本高麗蓋牟城 唐太宗會李世攻破蓋牟城即此 渤海改爲蓋州 又改辰州 以辰韓得名」と辰韓の由来が記述されている。
戦国以前は東夷であった現代の蓋州市あたりから朝鮮半島南部まで蓋州と呼ばれていた、すなわち、飛び地で州はあまり無いので箕子朝鮮以前から蓋州、辰州と呼ばれ、後に分断されて朝鮮という地域ができたことを意味する。
『山海經 海内東經』に「蓋國在鉅燕南倭北 倭屬燕 朝鮮在列陽東」と書かれて、蓋国が渤海東岸から遼東半島のことと解り、朝鮮の語句の前には時間の経過も含まれた内容で、漢代の燕は蓋州の一部を併合したが、朝鮮半島がそれ以前は辰国、その前は蓋国と呼ばれ、倭も辰国に属していたということだ。
鉅燕というのは『山海經 海內北經』に「貊國在漢水東北。地近于燕,滅之」と漢代に貊國を滅ぼして鉅燕となったという意味で、『山海經』の対象時代には鉅燕はもちろん燕すらなく、『山海經 北山經』に「燕山,多嬰石。燕水出焉,東流注于河」と地名があるのみで、周建国の元勲である召公が燕を建国した。
すなわち、蓋國は蓋州のことで朝鮮半島全体すべてだった可能性が高く、倭は朝鮮半島ではない、『山海經 』を書いた漢時代の領海の東部、黄海にあったということだ。
そして蓋国は辰国に支配され、漢時には、辰国領域は三韓の地へと後退し、朝鮮が領域を持ちそれが中国建国前の事で、『契丹古伝』には辰国は海を隔てて2国に分かれたと記述し、辰国は3韓の南や東以外考えられない。
『山海經』では海を海内・海外・大荒にわけ、海外は日本海、大荒は太平洋及び辺境を示す内容が散在して、海外南・海外東・大荒東は『三国志』に出てくる黒歯国・侏儒国を思わせる国が書かれて日本列島を思わせる。
更に、前漢に書かれた『神異經』の「東荒經九則」に「東方有樹,高五十丈,葉長八尺,名曰桃」、「木栗出東北荒中」、「東方荒中,有木名曰栗」と縄文時代から食べられていた食物を記述し、三代丸山遺跡では栗を栽培していたと言われ、『山海經』の「湯谷上有扶桑」と同じ「大荒之東極至鬼府山臂沃椒山腳巨洋海中升載海日 盖扶桑山有玉鷄」と扶桑が出現する。
そして、この扶桑は後漢の『洞冥記』の「是長安東過扶桑七萬里有及雲山」、『梁書』の「扶桑在大漢國東二萬餘里 地在中國之東 其土多扶桑木」と連綿と記述されるのである。
ここで、『梁書』の二萬餘里は恐らく、日本側が125Km、1里50mの2千5百里と報告したのに対し、梁は日本が長里で報告しと考え、この時代日本が短里を使用していることを中国は知っていたので、更に8倍の二萬里と記述したと考える方が理に適う。
「文身國 在倭國東北七千餘里」の倭国と分身国間は7千里の八分の一の875里の約45Km、「大漢國 在文身國東五千餘里」の大漢国と分身国間は同じく625里の約32Km、「扶桑在大漢國東二萬餘里」の大漢国と扶桑国間は2万里の同じく2千5百里で約125Km、計205Kmである。
これは国境間距離のため、領内に同程度の距離が有り、倭国と扶桑国間は国境間300Kmで岡山辺りから扶桑国となり、扶桑国の領内も125Kmとすると430Kmになり、常識的距離と言え、他の計算法の時は日本列島を突き抜ける。
そのため、『隋書』は「短里」を認めず、「夷人不知里數但計以日」と里単位を知らないので、行程を日数で示すと記述しているが、『梁書』で「慧深又云 扶桑東千餘里有女國」と慧深が里数を述べている。

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