2018年6月6日水曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 海外史書3

  そして君子国の北部にやはり『山海經』の『海外東經』から『大荒東經』にかけて「黑齒國在其北,為人黑,食稻啖蛇」と国が存在し、稲を食べ、稲作は中国以外ただ1国で、後代に東北で水田遺跡が見つかる背景だ。
『大荒東經』・『大荒南經』・『海外東經』・『海外南經』を合わせた地域の国は多数あり、『漢書 卷二十八下 地理志 第八」に「樂浪海中有倭人 分為百餘國 以歲時來獻見云」と旧蓋国の南黄海の中に倭があり、『三国志』では倭国の東に倭種がいて、漢代以前には既に日本列島で混血が進んだことを裏付ける。
同じ『漢書 卷二十八 地理志第八下 吳地』に「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國以歳時來獻見云」と漢代に黄海・六合を中心にした倭と別種の東鯷人が日本海にいると述べている。
さらに、『三國史記 卷一 新羅本紀 第一 赫居世』には「始祖姓朴氏・・・八年,倭人行兵,欲犯邊」、「辰人謂瓠爲朴,以初大卵如瓠,故以朴爲姓,居西干,辰言王或云呼貴人之稱」 および『三國志 魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳第三十』では「弁辰亦十二國・・・其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之,世世相繼。辰王不得自立爲王。國出鐵,韓、濊、倭皆從取之」、『後漢書 馬韓伝』では「皆古之辰國也。馬韓最大、共立其種為辰王、都目支國、盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。」と朝鮮人とは異なる、もちろん倭人とも異なる辰人が出現する。
馬韓人に共立されて王になった辰人、馬韓人に統治を任せた辰王は秦帝国以前から辰が存在するので中国人でもない、この辰人という人々は誰なのだろうか。
『日本書紀 神功皇后摂政前紀』に「新羅王遥望以爲・・・乃今醒之曰 吾聞東有神國謂日本亦有聖王」と日本の朝廷に対して日本に神国がある、「シン」国があると、敵対する倭国ではなく尊敬すべき聖王がいるシン国が新羅の東に有ると述べている。
偽作と言われているが、『契丹古伝』に漢が朝鮮を攻めて郡を作った時、辰が朝鮮2族と共に海や山によって守ったと記述され、辰は朝鮮2族の漢から見て遠方の東国で国が海を隔てて別れていると記述する。
漢は当然歯向かう辰に対抗して行動を起こすはずで、それが、倭への援助で『漢委奴國王』の金印を与えて援助したのであり、倭人の新羅への侵略も漢の影響があったから、漢代に倭の新羅への侵略が始まったと考えるのが理にかなっている。
だから、倭は中国から『宋書』に「以倭國王珍為安東將軍」と将軍位を授与されたことを喜び、日本は『梁書』に「貴人第一者爲大對盧 第二者爲小對盧」と高句麗の對盧という官位を真似て使用していいる。
中国の援助が有る倭国は中国と呼応して新羅や高句麗を侵略し、それに対抗して、新羅・高句麗は畿内政権と協調したから、『三国史記』の倭に対して、『日本書紀』の新羅は全く違う友好的かつ優位的な対応をしている。
『三國遺事 卷第一 紀異第一』の日本は「東海濱有延烏郎・細烏女 夫婦同居 一日延烏歸海採藻 忽有一巖 負歸日本 國人見之曰 此非常人也 乃立爲王」と新羅の王に日本人がなったと記述し、関係の良好さを示している。
しかし、良好な日本との交流を『三国史記』は一切触れていないのは、当然で、攻め込まれた倭国以上に日本の冊封体制下であったことを戦勝国の新羅が史書に記載するとは思えない。
それは、『日本書紀』で中国に贈り物を献上したと書かないのと同じことで、天皇が665年に『旧唐書 卷八十四 列伝第三十四 劉仁軌傳』に「麟德二年 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅」と唐の皇帝に平伏しに訪中したことを書いていないことからよくわかる。
特筆すべきは『三国遺事』において「阿達羅王即位四年丁酉・・・延烏郎・・・負歸日本 國人見之曰 此非常人也 乃立為王」の記事以降「開元十年・・・屬慶州東南境乃防日本塞垣也」まで日本が出現せず、『三国遺事』は明確に倭と日本の国名を峻別した。

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