しかし、同じ『旧唐書』では「日本國者倭國之別種也」と倭国とは別種の倭国に併合される以前の日本は「日本国者・・・西界南界咸至大海」と海中(黄海・玄界灘)・海外(日本海)ではないが日本に併合されたため「大荒」が「大海」と名前を変えている。
そして、『新唐書』では「日本古倭奴也」と唐末において日本は昔の海中(黄海・玄界灘)にあった倭奴の末裔で「直新羅東南在海中島而居」とそのまま海中(黄海・玄界灘)に有ると記述している。
すなわち、併合される前の倭国と別種の日本は大海にあり、倭国の前身の倭奴国は海中にあったと記述して、倭奴国は昔から海中の東シナ海にあり、日本は昔から大荒→大海にあって俀国に『旧唐書』で「日本舊小國 併倭國之地」と併合された。
この、「日本舊小國」は『新唐書』の「日本古倭奴也」の新生日本と旧倭国と同種、旧日本の別種で俀国王は『新唐書』に書かれる「次用明亦曰目多利思比孤」の末裔の俀国、旧日本を併合した「舊小國」倭国を俀国が670年に併合して新生日本を建国した俀国も「舊小國」で唐初では共に小国なのである。
私は、倭国の併合が629年の守屋滅亡、俀国の併合が664年6月乙巳の日に起こった「乙巳の変」の入鹿に対するクーデタと論証し、壬申の乱は倭国勢力のクーデタで天智天皇は694年まで天皇だったとした。
海外史書は一貫して小国の倭と大国の日本を神話時代から記述して、670年に小国の倭国が併合した日本を俀國が昔の日本という名前で建国したことを述べたのである。
中国史書は『後漢書』の「倭奴國」・「倭王居邪馬台國」・「倭國大亂」、『三国志』の「邪馬壹國女王之所都」・「倭國女王俾彌呼遣使奉獻」、以降『晋書』・『宋書』・『梁書』と変わらず倭国を記録にとどめ、「邪馬台」は恐らく「ヤマダ・イ」、「倭奴」は「イノ」と呼んだ方が日本語的だ。
そして、『隋書』には「大業六年 己丑 倭國遣使貢方物」・「俀国在」・「又至竹斯國 又東至秦王國」と隋時代は竹斯國と違う俀国が「大業三年・・・明年 上遣文林郎裴淸使於俀国・・・此後遂絶」と608年に国交を断絶し、「倭国」と国交を継続したと記述して、俀国から国交を引き継いだ「倭国」の到着地が「竹斯国」だ。
小国だった「俀国」が旧日本国を奪取し、その旧日本国は『旧唐書』の「倭國者 古倭奴國也」と「俀国」と同じルーツの「大業六年」に貢献した昔倭奴国だった小国の倭国が併合していた。
筑紫の近辺には山田斎宮跡や猪野皇大神宮があり志賀島で金印が見つかり、『三国志』の貢献記事が神功皇后紀に記述され、神功皇后は香椎宮に住み、山田宮で自ら斎王となったというのを無関係と考えることができない。
『日本書紀』は「卅九年是年也 大歳己未 魏志云 明帝景初三年六月 倭女王遣大夫難斗米等 詣郡求詣天子朝獻」等と神功皇后39年・40年・43年に記述し720年に『日本書紀』を完成させたとき、『三国志』の邪馬台国は香椎宮に宮が有ったと考えていたことを示している。
『日本書紀』に「五十五年 百濟肖古王薨」と375年・384年・385年のことを255年・264年・265年に書いて意に介しないことと対照的な扱いである。
そして、『宋史』は藤原氏の僧奝然が983年に持参した「職員今 王年代紀各一卷 奝然衣綠 自云姓藤原氏」と藤原氏中心の史書の可能性がある伊弉諾以前から長い歴史があると主張する史書をもとに「其年代紀所記云」と記述され藤原氏は中国と呼んだ北九州周辺の筑紫出身で尾張氏と共に畿内に侵入したと述べているのだろう。
しかし、『宋史』も「日本國者本倭奴國也」と漢代からの海中・黄海・六合の国と「神武天皇 自築紫宮入居大和州橿原宮 即位元年甲寅 當周僖王時也」の春秋戦国の大和建国と矛盾をきたし「海中」から「大海中」、「大荒」から「大海」へと中国の常識が変わり共に海中として混同したのだろう。
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