2018年6月13日水曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー まとめ

 神話分析そして神話に対応した遺跡、建国説話そして中国や朝鮮の史書を使って日本古代史の概要を述べたが、実際に出土した、実際に書いてある文脈を証拠として述べてきた試案だ。
私の解釈と異なる人々がいるとは思うが私はかまわない、それは、解釈だからで、発掘されていない事を、書かれていないことを以ての批判ではなく、書かれている文書や出土物という証拠を以ての批判は受け入れ、それが正しいと思われれば私の試案は取り下げる。
解釈を変えて古代史を合理的に、出来事とその結果が合理的に説明されるならその解釈を受け入れることにやぶさかではなく、科学的な思考を受け入れている私にとっては本望である。
たとえば、『三国志』に韓は「皆古之辰國也 馬韓最大共立其種為辰王」や『後漢書』の「辰韓、耆老自言秦之亡人」から秦帝国の末裔を主張してもよいが、私は「辰→秦」の変化や最大の馬韓が辰王なら馬韓王でよく、「有似秦語」と記述するが秦語は中国語では無いのか、中国は秦の頃語順が主語動詞の順だったのか、また、「其國近倭 故颇有文身者」と矛盾だらけで、この矛盾の証拠がある論証を必要とする。
残念なことに、発掘されていないことをそのうち発掘されると証明に使い、都合の悪いものは偽物扱いにし、書かれていないことを消されたと言い、書いてあることも間違い、書き換えたといって証明に使う、このような論理は科学ではなく受け入れることができない。
巷で、特定の文書をもとに他の文書は歴史を書き換えられたと騒ぐ説も古田説も含めて、私は解説書を乱読したが、その感想は、「解説書は記紀を批判しているが記紀の内容を無批判に都合の良いところを利用している」で、一般の記紀批判をしている人々と同類であった。
私は古代文字文書や『津軽外三郡史』等も偽造と呼ぶつもりはないが、同じように記紀や海外文献との整合性を究明することが、正しい文献の究明につながることを忘れてはならない。
日本では『日本書紀』・『古事記』・『先代旧事本紀』・『室見川銘板』・『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』・『野中寺 銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』の文面を自説に合わないと全て偽造とし、国宝を貶めてきた。
中国史書を対象時代よりずっと後の時代の常識で当てはめて、対象時代の検証もせず間違いだから信用できないとすることで無理やり違う文字・読み方に書き換えて自説に合わせてきた。
『後漢書』に「光武賜以印綬」と記述される『漢委奴國王』印すら偽造・盗難・紛失と言いたい放題の暴言・暴論の嵐で、おそらく、彼らは「親魏倭王」印が発見されても同じことを言うのだろう。
非科学的な妄想の論理は誰も否定できないが、妄想を信じる人々は納得できても、信じない人々は誰も賛同してくれない、各々が相いれず、論争で解決することができず、多数派工作や著名人や教授という権力を使って押し通す以外ない。
現在、私達は太陽や星座が私たちの大地の上を回るのではなく、大地が回り、大地が平面ではないことを知っているが、中世まで誰もがそれを信ぜず、権威ある科学者や宗教者を信じていたことを知っている。
私はこのような非科学的、既に信仰としか言いようのない古代史にいつの日か科学的な古代史へと変貌することを信じている。
なぜなら、考古学は科学であり、科学はいつまでも力で押さえつけることはできないからで、土器の絶対年代や、木材の絶対年代が解れば、数値は嘘を言わないし、測定方法は日本国内だけに通じることを否定するはずだからである。
纏向遺跡の桃の種と卑弥呼の関係は、種が135~230年のもので240年代を包含しないので卑弥呼の食した桃ではない可能性が高い。
新しい考古学的発見があるたびに私の論理は補強されているのに対して、多くの学者は新しい発見に戦々恐々とし、世界で信頼される方法での発見も、従来通り自説に合わないと否定するのだろうか。

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