2018年6月8日金曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 海外史書4

 瓠公は『三国史記』で「瓠公者未詳其族姓本倭人」と倭人で、「脫解本多婆那國所生也」と倭国ではない日本生まれの脫解王に「拜瓠公爲大輔」と重要な立場で仕えた。
「脫解王代 永平三年・・・瓠公夜行月城西里 見大光明於始林中」と西暦60年に後の新羅王味鄒の祖金閼智を倭人瓠公が招き入れ、阿達羅王即位四年157年に『三国遺事』の「阿達羅王即位四年・・・延烏郎・・・負歸日本 國人見之曰 此非常人也 乃立為王」と日本人の王を受け入れ、共に前後して『三国史記』の「脫解三年・・・與倭國結好交聘」・「阿達羅五年・・・倭人來聘」と倭国が朝貢して、倭国は日本の威光に逆らえない立場と考えられる。
『後漢書』の「馬韓人復自立為辰王 建武二十年」は西暦44頃の後漢時代の記述で辰王は日本人のようで、西暦400年頃に書かれた『後漢書』が辰と始皇帝の秦をまず混同しない。
『日本書紀』に「筑紫國造磐井陰謨叛逆 猶豫經年 恐事難成恒伺間隙 新羅知是 密行貨賂于磐井所」と倭の5王は筑紫国造であるにもかかわらず、中国の配下として畿内政権に反逆して新羅を攻め、新羅の畿内政権への上納物を掠め取ったが、日本国内で幸運にも内乱に乗じて倭国王が『日本書紀』に「筑紫君葛子恐坐父誅」と君・『隋書』の「號阿輩雞彌」と大王の地位を得ることができた。
中国でも南朝が廃れて北朝が力を付けたため、『隋書』にあるように「其國書曰日出處天子至書日沒處天子無恙云云」と新興隋と対等な立場と考えてしまって、『隋書』に「遣清復令使者隨清來貢方物 此後遂絶」と国交を絶たれてしまった。
そして、『隋書 卷三 帝紀第三 煬帝上』に「大業六年・・・己丑 倭國遣使貢方物」、『隋書 俀国伝』に「安帝時又遣使朝貢謂之俀奴国」、『旧唐書』に「倭國者 古倭奴國也」とあるように俀國と別国・分国の倭国(共に倭奴国の末裔)が『旧唐書』に「至二十二年又附新羅奉表以通起居」とあるように、新羅を頼って唐と交流を再開したが、新羅も倭と対等となってしまって政策を誤り百済と心中することになった。
『三国史記 卷六 新羅本紀 第六』に「十年・・・倭國更號日本 自言近日所出以爲名」と670年に国号を変え、当然、日本国内では唐に逆らった倭国の責任者が粛清されたと考えられ、倭国残党の抵抗が壬申の乱で、郭務悰の訪日と駐留で中国に反逆できないようにした。
『旧唐書』に「倭國者 古倭奴國也・・・日本國者倭國之別種也・・・日本舊小國,併倭國之地」、『新唐書』に「日本古倭奴也・・・皆以尊爲號居築紫城彥瀲子神武立更以天皇爲號徙治大和州」、『隋書』にも「安帝時又遣使朝貢謂之俀奴国」と記述され倭国も670年建国の日本国も俀国も倭奴国の後裔で670年まで唐の敵国の倭国だったが、昔から大和に有った別種の日本を倭国が乗っ取り更に小国の俀国の天智天皇が乗っ取り倭国以前の国名日本を継承したと記述しているのである。
『隋書』に「又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」と乗っ取られた国は秦王国以外書かれていないので秦王国の可能性が高く、俀国の最終到着地は「又至竹斯國」と筑紫が到着地で筑紫君の地だ。
ところが、新しい日本となっても『旧唐書』は「多自矜大不以實對故中国疑焉」と疑いを持っているということは、壬申の乱と郭務悰の駐留に失敗し、反中勢力が日本の中枢に残ったことがうかがえる。
『山海經』で「渤海・黄海・東シナ海・六合(玄界灘)」を「海中」、「日本海」を「海外」、「太平洋」などを「大荒」と記述したが、『漢書』で「樂浪海中有倭人」、『後漢書』で「倭在韓東南大海中」、『三国志』で「倭人在帶方東南大海之中」、『晋書』で「倭人在帶方東南大海中依山島爲國」、『宋書』で「倭國在高驪東南大海中」、『梁書』では「大抵在會稽之東 相去絶遠」、『梁書』と同時代の『隋書』が「夷人不知里數」と里数を知らないから『梁書』では絶遠とどこに有るか書かず、『隋書』で「俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中」、『旧唐書』で「倭国者・・・在新羅東南大海中」と「倭國者 古倭奴國也」と倭奴國以来全て「海中」として黄海・玄界灘に中心があるとしている。

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