『日本書紀』允恭七年の項に、中臣烏賦津使主が中臣氏として最初に登場する。その後、中臣常盤は自身を大連と称し、つまり天皇と同等と系図で述べている。彼は後の欽明天皇となる蘇我氏との戦いで敗北し、連となった大漢国王だったと思われる。中臣氏は大漢国で天皇と同等の大連を自称した可能性がある。
天種子は神武天皇が東征で菟狹津媛を妃に迎え、菟狹王となった。そして、天種子らは安芸(豐秋津洲)に向かい、高千穂宮の皇子である日臣が瀬戸内の道臣、そして豊国王になったと考えられる。しかし、日臣は日向に逃れたか、遷都して、おそらく、中臣氏がその後を埋めたと思われる。
西暦200年二月には中臣氏は連を賜姓されていた。その後、三月には使主(中使主)を姓にしており、この時期に大伴氏が卑弥呼に追われ、中臣氏が彼女に従ったことが示唆される。
西暦57年、倭奴王が『漢委奴國王』の印を授けられた。その後、「倭国者古倭奴国也」と倭奴の地域は後に倭国と呼ばれるようになった。倭国に侵略された際、筑紫の皇子である日臣は高千穂宮にいた。そして、天種子、日臣、珍彦と共に新転地へ向かうため、東の「拘奴國」と戦い、南の「狗奴國」へと追いやったと考えられる。天種子は天の「田根子」、大田田根子と同地域の但馬出身の神子だったと思われる。
『日本書紀』には、大国主が大国から追い出される話がある。この話に登場する人物のうち、建甕槌は、出雲臣の娘である沙麻奈姫の子であり、出雲臣の皇子と考えられる。大国主は葦原中国から追い出された。仲国は「豊葦原中国」とあるように、豊国の一部である。建甕槌の子供は「豊御氣主」で、『古事記』の中の「豐御毛沼」と類似している。豊御氣主の後裔には、妃が記されない大友主君という人物がいる。漢字の無い時代は、大伴との区別ができない。その為、大友主君の妃は日臣の娘である可能性が高いと考えられる。豊御氣主の孫は和迩君の祖で珍彦は曲(ワニ)浦の出身である。また、室屋の父が山前、祖父が豊日であり、豊日は豊国の日使主(臣)と呼ばれたのではと思われる。神武天皇の東征メンバーの系図である。
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