周の初代の王である后稷は、帝嚳の元妃である姜原の子供である。しかし、『山海經』には「帝俊生后稷」という記述があり、これは帝俊の子であると示している。これは『史記』とは矛盾する。『史記』では、巨人の足跡を踏んだことで妊娠したという話が伝えられている。漢朝にとっては、中国の天子は黄帝の子孫でなければならないという主張があるため、この事実は不都合になる。
帝俊はまた、帝嚳の別名とも言われていて、帝俊の子の帝鴻が「黄帝と同一人物である」という説も関連がありそうだ。もし説が正しいとすれば、帝俊の子である帝鴻(黄帝)が、曾孫の帝俊(帝嚳)として描かれることになる。このように誰彼となく、同一人物とする手法は論理的とは言えない。神に親子関係を持ち込み、その親子関係も矛盾だらけである。
『史記』「三皇本紀・帝舜」の項では、后稷は夏禹や殷契と同じ時代の人物とされている。しかし、后稷の15代後の周武王は初代周の王とされている。つまり、后稷は殷の最後の皇帝の帝辛の15世代前の天乙と同じ時代の人物であることになる。しかし、『山海經』には「西周之國」という記述があり、これは后稷の父である帝俊が帝嚳の神話の時代に存在したことを示唆している。これが、「帝俊は帝嚳の別名」説の裏付けなのだろう。
后稷は農耕を始めた英雄と記述しており、彼の弟である台璽の子である叔均は「西周之國」の王とされ、西周が最初の国と記述されている。勿論、中国は天子の国なのだから、それ以前に天子が支配する天民の国が存在している。『史記』に従うと、殷の帝嚳妃簡狄から周武王に朝廷を奪取されるまでの間には30代の世代が存在するが、これは周后稷からの同じ『史記』の記録と矛盾する。現代も古代も生物学的に出産適齢期は変わらない。平均すれば、20歳頃に生まれて、世代差は20歳程度となる。兄弟相続が有れば、差が5歳程度あるだろうが、兄の早逝で子が成人していないから起こるので、世代差はそれ程開かない。それは、結局、先代の長男の子が相続することからもわかる。
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