2024年1月26日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』の「拘奴國」から「狗奴國」3

  27年、新羅王子の天日槍が質として来日し、新羅王が辰韓王となった。この頃、多婆那國の皇子が金官國に赴任したとされ、その子である解が実質的な新羅王の瓠公を継いだ。そして、西暦8年に南解次次雄の長女と結婚した。その土地の王の娘に婿入りして、王位を継ぐ、日本と同じ王位継承である。多婆那國は「其國在倭國東北一千里」とあり、『後漢書』の「拘奴國」の位置に一致する。

『桓檀古記』によれば、「狗邪韓國多婆羅一稱多羅韓國自忽本」と記述されている。この文から多婆那國は多羅とも呼ばれ、金官國は狗邪韓國とも呼ばれていたことが分かる。また、「多羅國與安羅國同隣而同姓舊有熊襲城今九州熊本城」とあり、多羅国と安羅國は隣接し、同じ姓を使っていたことが述べられている。さらに、「倭其南東屬於安羅安羅本忽本人」とも記述され、安羅は東の拘奴國であり、さらに、南()の狗奴國の熊襲になったとされている。これにより、同族の拘奴國は倭と敵対しており、一方で隣国の但馬は倭と同盟関係にあった可能性が考えられる。また、狗邪韓國の王として解の父が赴任したと推測される。

多婆那國の描写は、西暦57年に即位した解の出来事を説明しており、多婆は多()の端、萩に田道間守が高麗橘を持ち込んだ頃の出来事と考えられる。田道間守が仕えた王は出雲振根の可能性が高く、出国時は但馬に仕える王がいて、帰国時は萩に命じた王の墓があったと考えられる。

また、遼東半島の南は倭と『山海經』に記述されて、常世と思われる済州島がある。そして、大人國は倭の領域に市場を開いていたことが言及されている。天日槍の説話は、辰王賜姓のための活動と考えられる。阿羅斯等は安羅国人であり、拘奴國と多婆那國による狗邪韓國の勢力争いの説話と見られる。

出雲氏は若狭の小浜を追われて、但馬の小浜に宮を建てた。地名は人と共に動くものであり、現代においても京丹後に小浜があることは興味深い。そして、後に出雲氏は現代の島根の出雲に追われたと考えられる。ただし、島根県の小浜は出雲には存在せず、石見にある。石見の隣には大田市があり、「大田々祢古」すなわち「大国王(大直祢古)」が遷った土地である可能性がある。

出雲振根は筑紫と同盟関係にあったが、「多藝志之小濱」を追放された。日槍の寶物が但馬にあったのも、但馬に宮柱を建てた王が所有していたためだろう。そして、振根が敗れて、但馬の大直祢古の娘と天児屋の分家の天種子が、南の狗奴國の宇佐に進出したと考えられる。

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