もう一人の人物は「筑紫國菟狭」に関連して、「勅以菟狭津媛賜妻之於侍臣天種子」という文言があり、天種子は「中臣氏」の「遠祖」とされる。前38年、武諸遇が出雲振根から神寶を得て出雲を支配下においた。『古事記』によれば、「宮柱布刀斯理」を行った地が三か所あり、「出雲國之多藝志之小濱」、「宇都志國」(おそらく宇(治)の(大)津の志国(岐))、「水穗國」(おそらく三国)だとされる。
出雲の多藝(岐:但馬)に宮柱を建てた王(神子)は多(藝)根子で、その末裔が大田田祢子であり、分家が天種子と思われる。この一族は加須屋の大神祇を祀る一族の援助を受けていたと考えられる。実際、出雲振根は筑紫と共謀して、武諸遇の要求を拒否した。そして、大田田祢子が畿内に、天種子が東の「拘奴國」に逃げた可能性もある。
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