2024年1月24日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』の「拘奴國」から「狗奴國」2

   『三國志』によれば、女王国の東には「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」と記述されている。また、長州には魏朝に朝貢してこない倭種の国が存在する。南の「狗奴國」の一部は逆に魏朝に朝貢していた可能性もある。戦った熊襲と歓迎した熊襲の存在が、それを物語る。このように、倭人は倭国人、倭奴、倭種などの異なるグループが存在していたようだ。曲浦の和珥臣や宇佐の中臣、長州の日臣の祖達もその中の一グループで、『後漢書』に登場する大倭国の王の配下として『後漢書』は認知していた。大倭王の武諸遇の弟である久奴直の祖の物部大小木が『後漢書』の邪馬台国の王である可能性が考えられる。また、東の「拘奴國」を攻撃したのは高千穂の王である豐御毛沼であり、彼は後に日臣となる可能性が高い。

もう一人の人物は「筑紫國菟狭」に関連して、「勅以菟狭津媛賜妻之於侍臣天種子」という文言があり、天種子は「中臣氏」の「遠祖」とされる。前38年、武諸遇が出雲振根から神寶を得て出雲を支配下においた。『古事記』によれば、「宮柱布刀斯理」を行った地が三か所あり、「出雲國之多藝志之小濱」、「宇都志國」(おそらく宇(治)の(大)津の志国(岐))、「水穗國」(おそらく三国)だとされる。

出雲の多藝(岐:但馬)に宮柱を建てた王(神子)は多()根子で、その末裔が大田田祢子であり、分家が天種子と思われる。この一族は加須屋の大神祇を祀る一族の援助を受けていたと考えられる。実際、出雲振根は筑紫と共謀して、武諸遇の要求を拒否した。そして、大田田祢子が畿内に、天種子が東の「拘奴國」に逃げた可能性もある。

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