韓地の西北部は燕に、東南部は辰國に属していたようである。それは、韓東部が辰韓、南部が弁辰と呼んだことでわかる。しかし、漢朝の時に、『漢書』「倭人分為百餘國」、『三國志』「通三十國」と記述される。すなわち、前漢の時には倭が韓地の70国を領土としていた。馬韓は『後漢書』に「馬韓在西有五十四國」と54国で20国程度足りない。それで、「辰韓在東十有二國其北與濊貊接弁辰在辰韓之南亦十有二國」と合計「凡七十八國」で、倭と併せて「百餘國」と矛盾がない。
この地域は鬼神を祀り、赫居世居西干に「朴爲姓」と、朴と呼ばせたのは辰人で、「居西干」とは辰國で「王」の意味だった。辰韓は『三國志』によれば、「馬韓割其東界地與之」と馬韓が土地を割譲して建国したとされる。確かに20国足りなくなった。日本では、国王はその土地の姫に婿入りして初代の王になることが一般的だ。馬韓の土地の割譲も、同様の経緯があった可能性がある。
赫居世の母は妃の閼英夫人の母、娑蘇夫人とされている。赫居世が婿入りしたから、義母が母と見なされることは常識だ。赫居世は捨てられた卵から生まれ、親は書けなかった。生まれた場所が解っているのだから、親も解らないはずがない。彼は馬韓の高墟村楊山麓で生まれ、徐那伐国の姫である閼英夫人に婿入りした。閼英夫人の姓「瓠氏」は、扶余語で朴を意味する。すなわち、閼英夫人の(義)弟は、倭人の瓠公と考えられる。馬韓には「本倭人初以瓠繫腰渡海而來」と記され、倭人が渡海して瓠氏を名乗り、徐那伐の王になったと考えられる。
赫居世、もしくは瓠公の子の天日槍は紀元前27年、垂仁三年に畿内政権の人質となる。そして、「辰人謂瓠爲朴」と、辰王から朴を賜姓され、赫居世は辰韓王になったと考えられる。前20年、赫居世の38年目に瓠公が馬韓王に対し、「辰、卞二韓爲我屬國」と主張した。それまで、両国を領有したのは馬韓王だったので、馬韓は瓠公を殺そうとしたが、諌められた。そして前19年、赫居世の39年目に馬韓王が薨じた。馬韓の滅亡は南解次次雄の6年目、西暦9年だった。それは、脫解の5年目の「馬韓將孟召以覆巖城降」の記事が、南解次次雄の5年目だからである。なぜなら、西暦65年の脫解の9年目に、瓠公が「遣瓠公視之」と記述されて、矛盾が生じている。瓠公は赫居世の38年目、紀元前20年から出現している。西暦12年ならば、50歳代と考えられて、矛盾が生じていないと考えられる。
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