2024年1月31日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』の倭の王朝交代1

倭奴王は皇祖天智天皇の先祖であり、葛城氏が即位できた立役者であり、『日本書紀』の安康朝までを記述した王朝と同祖である。593年、推古元年には「立厩戸豊聡耳皇子為皇太子」という記述があり、聖徳帝が皇太子になった。天皇が即位すると、太子を指名するのは当然のことだ。しかし、用明・崇峻・敏達天皇は皇太子を指名していない。欽明天皇は554年と568年に敏達天皇を2回皇太子に指名している。また、用明天皇には指名していない太子彦人が存在する。彦人は敏達皇后の長男であるため、13歳以上であれば自動的に皇太子となる資格がある。そのため、通常は全ての天皇に、「為皇太子」の記述は不要であり、長男か弟が自動的に皇太子になる。しかし、『日本書紀』は無い「為皇太子」を記述し、それは、天皇ではない、俀王・東漢直の立太子の日付を流用した。

591年、法興元年に俀国の法興帝の多利思北孤が即位したが、翌592年には皇太子の東漢直駒が馬子に殺害された。その時点で東漢直駒の子は13歳未満だったので、翌593年に弟の利歌彌多弗利が皇太子となった。政権は皇太子が実権を持ち、聖徳帝の利歌彌多弗利の長男がその後の帝位を継承していく。聖徳帝の子である漢王の妹の大俣王、茅渟王、天萬豊日、および、その妹天豐財重日の子である天命開別が太子として続いた。

それ以前は、568年には欽明廿九年に筑紫火君が皇太子になり、その子が法興帝、そして孫が東漢直駒だ。554年には欽明十五年に筑紫火君の兄である筑紫君の子である火中君が太子になった。

494年、仁賢七年に筑紫君磐井が皇太子になったが、少なくとも、倭王武は502年まで生存していたことが確認される。王位はその後、磐井、筑紫君葛子、そして、火中君に継承された。億計王が立太子したのは482年で、白髮三年の立太子は倭王武が478年雄略廿二年から502年まで在位中であり、太子が早逝したと考えられる。白髮三年から13年後に磐井が太子となり、早逝の理由が透けて見える形となった。

倭王武が若くして王位に就き、弟が太子であったが、子の磐井が生まれると、おそらくは弟を殺害したのだろう。太子に後継者が生まれると、王への権力を取り戻すことは難しいため、それが殺害の動機だった可能性がある。磐井が太子の適齢年齢である13歳に達するまで待ってから立太子し、天監元年の「征東大将軍」の綬号は磐井が21歳である。王位は、20歳以上なので、皇位継承を認めてもらうための梁朝訪問の年齢に合致する。

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