2024年1月22日月曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』の「拘奴國」から「狗奴國」1

  『三國志』倭人伝においては、韓地が歩行か水行かといった論争がある。また、『後漢書』にも韓地や倭国についての詳細な記述がある。しかし、『後漢書』には具体的な国名が記載されていない。一方で、『三國志』では馬韓が「凡五十餘國」、さらに「弁・辰韓合二十四國」のように詳細に述べられている。

倭王武は「海北九十五國」と述べており、これは『後漢書』の74国と比較すると21国の差がある。倭人伝も「衆夷六十六國」を30国と述べ、これも少ない。しかし、『後漢書』も韓地を「馬韓在西有五十四國」などと記述しているが、具体的な国名を挙げていない。そのため、これは魏の使者が実際に見た国々の可能性が高いと考えられる。『宋書』も実際に見ていないので、詳細な国名を記述していないし、国数が多い。

『三國志』は女王国の東に「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」と記述する。長門には魏に朝貢してこない、魏朝が認めない倭種の国がある。すなわち、倭人は、倭国人、倭奴、倭種が存在した。それらの中の、曲浦の和珥臣や宇佐の中臣、長門の日臣の祖達が倭人のひとつの倭種と考えられる。すなわち、後漢時代において、東の倭種が拘奴國に侵攻して、魏時代には南の狗奴國、曲浦、宇佐、長門が倭種の国に組み込まれたと考えられる

倭種は『後漢書』の漢が認知していたが、朝貢しない大倭国の王の配下だ。大倭王の武諸遇の弟、久奴直の祖の物部大小木が王だろうか。東の「拘奴國」を攻撃したのは高千穂の王の豐御毛沼、日臣になる人物だろう。葛木氏は伊奢沙和氣大神と御食津大神(『古事記』記述時は氣比大神)が名を交換した。すなわち、御食津大神から伊奢沙和氣大神のように、若御毛沼が伊耶本和気に名をかえた。

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