中国の天子は『山海經』の「海內經」西南の「蓋天地之中」の「都廣之野」で生まれた。海內、渤海や黄海が天、倭も「海內東經」に記述され、天の住人だ。天が記述される『古事記』の嶋がある。「隠伎之三子嶋(天之忍許呂別)、伊岐嶋(天比登都柱)、津嶋(天之狭手依比賣)、女嶋(天一根)、知訶嶋(天之忍男)、兩兒嶋(天兩屋)」である。黄海と六合の領域、神霊が生まれ、聖人が行きかう場所である。聖人を日本人は「ひじり」すなわち「肥後」と理解した。神霊が生まれる物語は『古事記』にも記述されている。但し、大嶋(大多麻流別)は隠伎之三子嶋に対する隠岐の島後の於母島、忍許呂島である。
『三國志』と『古事記』の若帯日子より前の倭の領土と畿内政権の領土が全く異なることが解った。阿知使主や子の都加使主が「並率己之黨類十七縣而來歸焉」と17縣を引き連れて帰順した。この17縣の中に壱岐や筑紫などが有ったと思われる。使主も、中臣烏賊津使主、和珥臣祖日觸使主、漢使主を含めて葛木氏の神武東征のメンバーである。そのメンバーを率いた人物の子や孫が、武内宿祢の孫や曾孫と思われる坂本臣の根使主、葛城氏の圓大使主だ。「漢部定其伴造」の曰直は曰臣、道臣を与えられた大伴氏の配下たちである。
これで、『三國志』が見ているのが、日本列島では無く、九州の西半分、南シナ海側だということが解った。中国から見た東夷伝の倭人なので、当然である。『山海經』の倭は「海内東經」、黄海や南シナ海を記述した条項に記述された。『後漢書』では大倭王と畿内政権を認知していたが、『後漢書』に大倭国を記述しない。朝貢しない大倭国は無視される。
『漢書』の「眞番辰國欲上書見天子」の辰國は独立した章が無い。韓地「三韓」は「皆古之辰國也」、辰國の土地だった。「耆老自言秦之亡人」と秦人だったと古老が言う。だから「有似秦人」と人が秦人に似ると言うが、漢朝と秦朝の人は同じはずだ。『後漢書』は意味不明なので、人と語とを変更している。辰は後に秦と書き換えられるので、秦人は辰人だ。
辰韓は「秦之亡人・・・有似秦語故或名之為秦韓」と「秦人」が治めているからと、「辰と秦」を同一視している。中国人なら、「Chénとqín」、朝鮮人は「chenと jin」と別国だが、日本人は「シン」で同じ国名だ。『三國志』は「名樂浪人爲阿殘東方人名我爲阿謂樂浪人本其殘餘人今有名之爲秦韓者」と記述する。秦韓人は東方の人が自分の事を「あ」(吾)と言うから阿殘と呼び、東方の人だった。秦韓の東方は日本である。
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