韓地の「三韓」は『三國志』に「皆古之辰國也」と、辰國の土地だった。そして、「魏略曰:初右渠未破時・・・東之辰國」と辰國は衛氏朝鮮の東にあったと言う。すなわち、朝鮮半島は辰國の領地だった。そこでは、鬼神を祀っていた。馬韓は百濟建国前に存在し、燕が滅亡すると馬韓王が統治したようだ。馬韓は西暦6年、溫祚王二十四年に「馬韓王」が「吾割東北一百里之地」と、百濟王に領地を割譲した。そして、「遂有幷吞辰馬之心」と辰韓と馬韓を獲ろうとして、9年、溫祚王二十七年「馬韓遂滅」と、馬韓を滅ぼしたと記述する。
西暦9年、二十七年「馬韓遂滅」と馬韓を滅ぼしたと百濟は主張する。しかし、景初二年,明帝が「二郡遂滅韓」と馬韓を滅ぼしたとあり、滅んでなかった。この9年に割譲されたのだろう。57年、建武中元二年に倭王は「百餘國」の統率者として、「光武賜以印綬」と、印を賜った。それは、馬韓も含まれていたと思われる。「百餘國」は、倭王武の「衆夷六十六國」より多く、韓地が含まれる。それから、238年まで馬韓は倭國領と主張したけれど、魏が奪った。『三國志』は「弁、辰韓合二十四國」の中に斯盧國がある。そして、「馬韓・・・伯濟國・・・凡五十餘國」と百濟も馬韓の中に記述する。新羅も百濟も三韓の74国の中の2国と後漢も魏も晋も理解した。そして、前漢までは韓すら認識していなかった。
それで、238年12月に倭國が「親魏倭王」と魏の臣下となって、倭が百濟を領有したと魏が認めたようだ。晋の力が弱まると、百濟は畿内政権に接近したようだ。神功皇后の「肖古及王子貴須」の記述は360年頃の『古事記』の「息長帯日売」の記事である。372年、近肖古王二十七年に、畿内政権と天秤にかけて、「遣使入晉朝貢」と中国に朝貢した。これは、阿知使主が「並率己之黨類十七縣而來歸焉」と畿内政権に臣従したからと思われる。阿知使主は去來穗別の家庭教師で、300年代後半の人物だ。
397年、阿莘王六年に「王與倭國結好以太子腆支爲質」と太子を質にすることで、倭と講和した。そして、412年、腆支王十二年に東晉が「為使持節都督百濟諸軍事鎭東將軍百濟王」と百濟を承認した。そのため、宋朝も倭が百濟を自領と主張しても、認めなかったようだ。倭や百濟は畿内政権と中国との狭間の外交で、百濟は馬韓の地を得た。倭は筑紫・肥・豊の安芸まで影響力を持ったようだ。そのため、『梁書』の「文身國」・「大漢國」は石井が敗北して、蘇我氏に奪われた。「倭国」は領土を縮小して俀国に、「大漢國」は稲目の広国、「文身國」と粕屋は馬子の倭国である。
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