日臣と思われる豊御毛沼の東征で「臣是国神名曰珍彦釣魚於曲浦」と記述する。この珍彦は和珥臣の祖であり、日臣と合流する。仲哀朝の大伴武以連から允恭朝まで続く中臣烏賦津使主、そして雄略朝の和珥臣深目の初登場である。これらの人物はすべて、『後漢書』の対象時代以降に登場する。豊御毛沼や多臣の祖、国前臣の祖、物部君の祖は南ではなく、東の「拘奴国」に向かったようだ。神八井耳の後裔の多臣は多(岐津)の臣、火君、大分君、阿蘇君になり、国前臣は宇佐の国東の王になった可能性がある。物部君の祖は久奴直の祖の大小木であり、武諸遇の兄弟だ。
大倭王は南の「狗奴國」を攻撃するため、一国の魁帥である「神夏磯媛」と面会した。この神夏磯媛は、「上枝挂八握釼中枝挂八咫鏡下枝挂八尺瓊」と詠まれ、鬼道の魁帥とされている。那津の伊襲媛もまた、大倭王に従ったと記述されている。この「一国」は邪馬壹國であり、後漢時代には邪馬臺国と呼ばれていた地域で、おそらく山田の猪の国の皇大神宮があった所である。伊襲の高千穂宮には一大率が存在し、「常治伊都国於国中有」と、伊都国で統治していたと記述されている。同様な統治形態は韓にも見られ、「共立其种为辰王都目支国盡王三韩之地」と記述されている。目支国は月支国を指すものと考えられる。年代的には、82年の景行十二年八月乙未朔己酉、九月甲子朔戊辰が、206年と同じ日干支であった。また、「幸筑紫」、「到周芳娑么」、「議討熊襲」は、周芳の南、宇佐方面の討伐に関する説話だろう。
大倭王は物部君の祖である夏花と考えられる人物、印岐美の可能性がある。印岐美は志紀縣主や久努直の祖であり、つまり、彼自身かその子孫が拘奴国王や志紀縣主になった。師木玉垣宮は128年まで首都だった可能性が高い。師木玉垣宮の天皇の子であり、志賀髙穴穗宮天皇の弟である印岐美が志紀縣主であれば、理にかなっている。印岐美は猪君、山田猪(邪馬臺)国の王である可能性が高く、一方で、一国の魁帥である神夏磯媛が「我之屬類必不有違者今將歸徳矣」と述べ、帰順している。206年には卑弥呼が即位していた。卑弥呼は神那津の伊襲国媛であり、那珂川河口の熊襲の女王で、これは『三国志』にも合致する。また、伊都國も伊襲と記述されているので、奴國の那珂川河口も奴(那)襲と考えられる。そして、景行十二年十二月癸巳朔丁酉は263年の日干支と考えられる。神夏磯媛と市鹿文を同時に倭国の女王にするのは奇妙だ。すなわち、厚鹿文が卑弥呼の宗家であり、迮鹿文が卑弥呼の男弟王の子である可能性がある。そして、宗家厚鹿文の娘である宗女の市鹿文(宗女壹與)を「賜於火國造」と日国造と追認した。
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