2024年1月5日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と馬韓

  『三國志』は馬韓について、「信鬼神國邑各立一人主祭天神名之天君」と記述する。「立大木縣鈴鼓事鬼神」と大木が御神木である。大宰府天満宮は梅が御神木、『隋書』は「阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌」と天の大君と呼んだ。天君だ。新羅の建国は新羅王赫居世居西干と辰王ではなく、「國號徐那伐」、前57年の建国の徐那伐王だ。辰韓は「馬韓割其東界地與之」と馬韓が馬韓の領地を分割した。辰韓建国は百濟建国前18年、温祚王が建国した以前の話だ。

紀元後8年、『三国史記』に「馬韓王遣使責讓曰王初渡河無所容足吾割東北一百里之地」と記述される。すなわち、馬韓王が馬韓の東北10㎞の地を百濟に割譲した。これが、扶余百濟の韓地侵略の始まりだ。それ以前も以後も馬韓は存在した。百濟は9年、温祚王二十七年「馬韓遂滅」で建国したと考えた。新羅も、辰韓六部で始祖赫居世居西干が生まれ、辰人に「辰人謂瓠爲朴・・・故以朴爲姓」と朴と賜姓された。そして、前57年に徐那伐王となった。

馬韓は「桓靈之末」、景初中237年頃、古尓王の即位時、「二郡遂滅韓」と馬韓は滅んだ。馬韓は「樂浪本統韓國」と樂浪郡が統治し、更に、辰韓の8国を帯方郡と分割していた。しかし、250年、倭に「親魏倭王」を授与して、馬韓を任せたようだ。『晋書』も『三國志』と同様に、馬韓・辰韓・弁辰と変わらない。そして、不明な馬韓王が、280年、281年、286年に朝貢しているが、百濟は国として認められていない。おそらく、倭の馬韓王だろう。そして、『三国史記』の古尒王・責稽王にも朝貢の記述が無く、百濟以外の王が朝貢した。そして、285年、武帝二年に「東夷八國歸化」と記述する。それ以降、太康十年に「東夷十一國」、「東夷遠三十餘國・・・來獻」と記述する。合計、東夷110国以上が晋に付いたが、新羅も百濟も含まれない。しかし、翌年「阿知使主・・・並率己之黨類十七縣而來歸焉」と畿内朝廷に帰順した。太康十年に晋は、倭が「絶遠」と統治政策を変えたのだろう。

百濟を国として、中国が認めたのは『宋書』からで、倭王も同じ頃、馬韓が百濟に滅ぼされたと認めた。372年に近肖古王が「遣使入晉朝貢」と初めて朝貢した。そして、418年、腆支王が「使持節都督百濟諸軍事鎭東將軍百濟王」と承認された。倭王珍は「倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王」と自ら名乗った。馬韓ではなく百濟と呼んだ。しかし、晋は百濟を認知していたが、『晋書』の「四夷傳」は「馬韓」で、晋の領土。倭王は百濟を含めて自領だと主張した。

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