2024年1月19日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と新羅2

徐那伐国が新羅になる前、馬韓の徐那伐国の王は倭人の瓠公の家系だった。このため、馬韓は倭によって支配され、辰・卞二韓は辰王として新羅によって統治されたと思われる。『遼史』によれば、渤海が蓋州に改名し、辰州と呼ばれるようになったとされているが、これは逆だろう。渤海は7世紀の国であり、辰州から別れた辰韓は紀元前に存在していて、史実が逆転している。『山海經』には「蓋國在鉅燕南倭北」とあり、蓋州の南は倭だった。半島の西は倭、東が辰国である。元々、渤海は「鬼國」と呼ばれ、「蓋州」は「辰州」と言われたと考えられる。その辰州を燕が奪って蓋州となったが、蓋州の東は辰州のままだったようだ。半島東部、粛慎の南には「白民之國」のみで空白地になり、漢代には四郡が置かれ、馬韓と辰韓は半島南部に押し出された。『漢書』には「樂浪海中有倭人分為百餘國」とあり、紀元前108年以降、馬韓を含む黄海沿岸に100余国の倭人の国が存在していたことが示される。

新羅が中国史書に初めて記述されたのは『宋書』で、倭の領有地域として言及された。国家として詳細に扱われるのは『梁書』からだ。『梁書』では新羅の言語が「其言語名物有似中國人」、すなわち中国人に似ているとされている。しかし、「語言待百濟而後通焉」、つまり百濟人の通訳が必要とあるため、矛盾が生じている。これにより、その時期に、新羅が中国の秦の言葉ではなく、鬼神を祀る辰人の言葉で統治していた可能性が考えられる。

『梁書』によれば、「辰韓始有六國稍分爲十二新羅則其一也」と述べている。初めの6国は『三国史記』の「朝鮮遺民分居山谷之間爲六村」を指しており、これは馬韓の東に位置する6つの村を指している。しかし、この記事には梁の時代に辰韓が新羅になったための矛盾があると思われる。6つの村が辰韓12国の中の1つの新羅の旧国名の斯盧國の記事がある。馬韓王は「共立其種為辰王都月支國」とあり、月支国を都として三韓を統治した。

19年、赫居世統治の39年目に馬韓王が死に、その際、解尼師今が「金官國」に現れた。これは偶然ではないだろう。赫居世の死に対して、「其國不足平也」と述べており、その国が混乱していることを指摘している。「解本多婆那國所生也其國在倭國東北一千里」で、千里は約50㎞、「度海千餘里至拘奴國」の倭国に敵対する国だ。「初其國王娶女國王女爲妻」とあるように、多婆那國の婿であり、拘奴國の王族でもあるため、倭国と対立していた。この王族の解が、同盟関係にある馬韓王が統治する「金官國」に来た。そのため、戦乱が勃発し、馬韓王と初代解が亡くなったと考えられる。2代目の解は「辰韓阿珍浦口」に逃れ、「乃生大卵」とあり、生後間もないことが窺える。そして、彼は南解次次雄の長女と結婚した。卵生は、解の親が誰かを書くと不都合があったことを意味する。

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