2024年2月2日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』の倭の王朝交代2

  434年、允恭二三年の「爲太子」は、「讃死弟珍立」が記述されるように、珍が皇太子になったことを意味する。その後は、珍の子である濟が継承し、「濟丗子興」とその子の興が後を継ぎ、親子で継承している。その為に「爲太子」がなかったようだ。

401年、履中二年には讃が太子となった。343年、仁徳卅一年には都加使主が皇太子になり、その後阿知使主を名乗ったようだ。阿知使主は289年から400年まで記述され、襲名する役職名と考えられる。阿知使主の王朝は、289年に「來歸焉」と、十七縣を引き連れて畿内政権に帰順した。この時、残りの30余国は別の王朝、おそらくは日向諸縣君として分裂した可能性がある。日向髪長大田根の子の日向襲津彦は『古事記』に記述がなく、代わりに諸縣君牛諸井の娘である髪長媛がおり、諸縣君が襲津彦を賜姓された可能性が高い。熊襲の津の長官である。

それ以前の応神四十年の「立菟道稚郎子爲嗣」には、阿知使主以前の記録がなく、倭国または高千穂王朝の記録しか残っていなかったのだろう。その記録は、『三国史記』の記録と同様だったと考えられる。この記録では、応神の四十年間の倭の王朝が存在し、新しい王朝の王がその40年目に皇太子になったことが示唆される。そして、使主を賜姓された阿知使主がその王朝を名乗り、289年は前王朝の40年目だろう。

前王朝は250年に壹與が皇太子になったが、前の男王では国がまとまらず、卑弥呼の宗家厚鹿文が復権し、市乾鹿文が女王、そして壹與が太子となった可能性がある。同様に、248年は成務四八年、元年は201年で、卑弥呼女王、皇太子は男弟王だった可能性がある。この女王が一國の魁帥である神夏磯媛で、206年には大倭王の皇太子である夏花に承認されたと考えられる。

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