2024年2月21日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』とその後の倭国3

  『薬師寺東塔の擦管』には「庚辰之歳建子之月以中宮不悆」と記されており、これが中宮天皇の崩御時期を示している。680年、天豊財の崩御で、天智が完全な最高実力者となった。同年、天武九年十一月四日に、「高麗人十九人返于本土」と高麗に帰った。「是當後岡本天皇之喪而弔使留之未還者也」と、天豊財の葬儀に参加していた者が帰国を20年延期したと記されて奇異である。「建子之月」は11月と合致し、葬儀は十一月四日にあったのだろう。天豊財中宮天皇の葬儀の為の大和への弔問で、帰国記事を葬儀の日付に記述したのである。

高麗使節は斉明天皇六年七月に乙相賀取文が帰国後、天智天皇五年正月に能婁が来日、そして六月帰国以外無かった。高麗滅亡後は帰国しない使節があったが、亡命者の可能性が高い。葬儀に参列した使節が実際に帰国したのは681年、天武十年五月に「高麗卯問歸之」として帰国した。この葬儀の使節の日本訪問は、「遣・・・朝貢」の為の、680年の天武九年五月の「高麗使人卯問等於筑紫」の訪日である。この時期は、筑紫都督のもとに首都が在り、「饗高麗客卯問等於筑紫賜祿有差」と饗応も俸禄も筑紫で行った。

饗応場所の記述がある、天武天皇元年から持統六年まで31回ある。本来饗応場所は決まっているので、記述する必要が無い。しかし、その中の19回が筑紫、飛鳥寺が4回、難波舘が2回と、筑紫が圧倒的だ。しかも、中宮が生存中は筑紫以外で饗応していない。これは、この間天皇が筑紫に滞在した、筑紫が首都だったと考えられる。そして、中宮死後、天皇が畿内に戻ったと考えられる。晩さん会は王が出席することに意味がある。王が出席しない晩さん会を、史書に記述する意味が無い。出席できなかった持統四年には、饗応するよう命じている。

『日本書紀』は77%の朔の日干支が合っていた。もちろん、その77%のうちには23%の間違いの可能性もある。史書は、記述する政権に都合の悪い部分は記述しない傾向がある。足りない情報は他の資料と組み合わせることで補完した。しかし、説得力を持たせるための日付によって、矛盾が生じた。古代には日付を精密に算出することができなかったが、現代では可能である。私たちは複数の資料から朔の日干支を証拠に正確な歴史を示すことができるようになった。そして、この他文献との対比によって新しい歴史を示すことが出来た。

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