史書にとっての神話は、記述した王朝の拠り所となる神の説話で、氏族によって祖神は異なる。『史記』での「五帝本紀」の黄帝、帝顓頊、帝嚳までが神話と考えられる。これは、その後の帝堯の説話に、例えば「八月西巡狩十一月北巡狩皆如初」とか、「堯立七十年得舜」といった具体的な時期が記述されているからである。これらの時期が記録されていなければ、帝堯の統治がいつ始まり、いつ行われたのかがわからない。
帝堯は、「命羲和敬順昊天數法日月星辰敬授民時」と、羲和に対して歴法の制定を命じた。これは、年や季節、月、日を決め、特定の日付を記録する必要性があったためだろう。農耕が始まり、特定の時期に特定の農作業を行う計画が必要だったからだ。そして、その経験を活かすためには、記録が不可欠だった。中国では、ちょうどその頃に甲骨文字が使われていた。甲骨文字は殷の遺跡から発見されたが、おそらく帝堯の時代には文字が既に使用されていたと考えられる。もちろん、文字は骨や甲羅にだけ刻まれていたわけではないだろう。限られた量しかない甲骨ではなく、竹簡や木簡にも記録され、束ねて保存されていただろう。束ねる際には順序を考慮しており、そうでなければ記録として機能しないからだ。甲骨に文字を刻むことができたのなら、竹や木にも同様に刻むことが可能だったと考えられる。
神話の『山海經』には、「帝俊生后稷・・・稷播百榖始作耕」と記述され、農耕は后稷が始めたとされている。また、「稷之孫曰叔均始作牛耕」ともあり、牛耕は叔均によって初めて行われたとされる。「西周之國」の王の叔均は、帝嚳の元妃の子であり、帝堯と同じ時代に農耕を始めた人物だ。「叔均乃為田祖」という記述からも、田祖とは農業の神である神農氏の可能性が高いと考えられる。しかし、『史記』は叔均には触れず、神農氏や后稷に項を設けていない。漢朝にとって、あまり意味のない神なのだ。
『山海經』には「有都廣之野后稷葬焉 ・・・膏稻膏黍膏稷百榖自生」と記され、后稷が亡くなるまで、自生した稲を食べた。稲を粉にして餅状の糈を作り、「皆用稌糈米祠之」と神に供えられたとされる。糈は調理せずに提供されたようだ。
また、后稷と叔均は叔父甥と関係が深く、叔均は黄帝の子の魃(バツ)に命じて、「令曰神北行先除水道」と北方に行かせ、水路を止めさせた。黄帝と后稷が同じ時代の人物であることが示されている。
后稷は周朝の始祖とされ、その周王朝は天帝の帝嚳から天位を継承したと主張する。しかし、黄帝の末裔であると主張する漢が天位を取り戻した。漢は正統な天帝の継承王朝であると主張している。周と漢は祖神が異なるからである。『史記』は漢朝の主張を記述した書であり、都合の良い神話を記述し、都合の悪い神話は省略されている。『山海經』も中国人にとって都合の良い神話だが、それでも利害関係が少ない遠交近攻の時代の書である。遠方の内容は信頼できる。
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