『山海經・海内東經』によれば、倭は「蓋國在鉅燕南倭北」とされ、蓋州すなわち遼東半島の南、黄海の東部に存在した。蓋は「蓋天地之中」・「華山青水之東・・・至于天」という記述から、天に位置して、山東半島や遼東半島周辺が天地であるとされている。また、「西北海之外赤水之西有天民之國」とあるように、赤水は対馬海流を指しようで、西北海は渤海の西部を示していると考えられる。山東半島の外側、つまりシナ海岸側、山東半島南部に天民の国があり、その子孫が天子になったと考えられる。その対岸には倭人が住んでおり、天草などの韓西岸や九州西岸や島々に存在していたと思われる。
そこに住む人々が、漢の時代に「樂浪海中有倭人・・・分為百餘國」と記述され、百余国が朝貢していた。「東海之内北海之隅有國名曰朝鮮」及び「朝鮮今樂浪郡也」と記述され、これは遼東半島南東部に位置する朝鮮という国を指している。つまり、樂浪海中は黄海の中にある国である。その樂浪海中の百余国が朝貢し、倭人だったと記述する。
そして、西暦57年、建武中元二年には「倭奴國奉貢朝賀・・・倭國之極南界也」と朝貢が行われた。金印は志賀島で発見され、志賀島が南の境界であるとされた。この朝貢は九州の黄海沿岸の30国を倭国が引き連れて朝貢した。「衆夷六十六國」の残りの36国は東の拘奴國と南の狗奴國に属していたと思われる。百余国の残りの34国余は、韓地にあったようである。
「狗奴國」は三笠と周芳娑麼から出撃して奪った、八女、菟狹川上、三毛、碩田、速見、直入、來田見、竹田市稻葉川、大野、直入、熊縣、玉杵名である。日向国もその中に含まれる。東の「拘奴國」は神武東征の際に速吸之門の曲浦、菟狹、安藝などと考えられる。
そして、『魏志倭人伝』において、豊国は拘奴國で、豊国の記述が見当たらない。このことから、3世紀の時点では「邪馬壹國」の領域は豊国や大国には及んでいなかったと推測される。つまり、神倭や大倭などの、『古事記』の対象とされる倭と「邪馬壹國」は異なる地域であったと言える。
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