2024年2月16日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』とその後の倭国1

   磐井が敗れ、その子である筑紫君葛子が粕屋以東を放棄し、倭国は「俀国」と粕屋以東の「倭國」に分裂した。筑紫君の子は火中君と火君であり、俀国の領域は小国で筑後と肥前に限られたようだ。肥後では、『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』が発見され、「獲□□□鹵大王」の記述は、倭国王の上殖葉皇子である可能性が高いと思う。

『舊唐書』は、「日本舊小國併倭國之地」と記述している。日本はもと俀国の旧倭奴国が分裂した国であり、一方の倭国が畿内で政権を掌握した。631年、貞觀五年に、日本国王として倭国が朝貢、唐も来日してきたが、交渉は決裂した。648年、貞觀二十二年には、新羅と唐が同盟し、「又附新羅奉表」として記されている。そして、『新唐書』には「令出兵援新羅未幾孝德死其子天豐財立」とあり、つまり、664年には白村江の戦いでの敗北、天命開別、鎌足のクーデター、郭務悰による九州占領が起きた。クーデターで俀王の崗本天皇が即位したが、「俄而崗本天皇崩」と、わずかで孝徳が崩御し、天豐財が即位した。

 665年、麟徳二年に泰山で仁軌が管理した、「新羅及百濟耽羅倭」の「四国酋長」と唐の皇帝が会談した。日本側の酋長である天皇は中宮天皇の天豐財である。『新唐書』には「孝德即位改元曰白雉」・「未幾孝徳死其子天豐財立」という記述があり、これは実際に会談に参加した人物であるため名を知っていたのだろう。こうして、白雉を建元した孝徳帝が智奴王であったと唐朝は理解したことが分かる。そして、智奴王が崩御し、倭王の蝦夷・入鹿親子が権力を握ったため、『新唐書』がこれを記述しなかったのであろう。これは、天萬豐日が記述されなかったのも、白村江で戦った「筑紫君薩野馬」だったためだろう。

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