倭国は最初、「親魏倭王」と魏の支配下にあった。しかし、286年の泰始二年当時の魏の武帝のもとに「倭人來獻方物」と朝貢したが、それ以降不平不満を持ったようだ。276年、咸寧二年には「東夷八國歸化」とあるように、晋が倭国領と見なしていた八国を併合した。さらに、280年、太康元年には「東夷十國歸化」、282年、太康三年春には「東夷二十九國歸化」と併合して、晋側に47国余が加わった。
『晋書』の四夷傳の三韓の馬韓の条の「咸寧三年復來明年又請內附」の記述がある。これは百濟を中心とする「馬韓・・・凡五十餘國」の中の47国が含まれていたことを示している。その後、さらに「東夷二十國朝獻」と倭国から20国が離脱したようだ。289年太康十年には「東夷絕遠三十餘國」と『三國志』の邪馬壹国の国は晋と断絶した。それに対して、同年応神二十年に「都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」とあるように、倭国の一部が畿内政権に加わった。しかし、416年の腆支十二年に、「為使持節都督百濟諸軍事鎭東將軍百濟王」と、百濟が晋の将軍に任命された。それに対抗して、413年、安帝義熙九年の「倭國及西南夷銅頭大師並獻方物」のように、交流を再開したが、認められなかったようだ。
倭国は宋朝が興ると国交を回復し、425年には「都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍」のように、百濟を含む倭領と認めさせようとした。しかし、451年には「新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍」とあるように、百濟は含まれなかった。これは百濟が中国に内附しているため、倭領を認めることができなかったからだ。
倭国が主張する支配域は、「海北九十五國」と韓地の95国、「西服眾夷六十六國」と九州の66国、そして「東征毛人五十五國」と中国地方の55国と考えられる。磐井に勝利したなら、「長門以東朕制之筑紫以西汝制之」と述べられ、中国地方の文身國、大漢國まで、旧豊国・仲国の支配を示唆している。
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