『日本書紀』には、650年から670年まで、「即位未幾」や「俄」で崩御した天皇は存在しない。孝徳天皇の在位は大化と白雉の10年、斉明は7年、天智も10年である。また、短命政権の5年在位の崇峻や2年の用明にはそのような記述がない。しかし、『家伝』には、「俄而崗本天皇崩」、「俄而天万豊日天皇已厭萬機登遐白雲」という記述があり、崗本天皇と天万豊日は短命政権であることが示されている。95%以上が正しい『新唐書』と77%の『日本書紀』、『新唐書』に優位性がある。
『日本書紀』も、存在しない孝徳元年から孝徳十年を記述できないため、白雉年号を使用した。そして、白雉だけでは足りないため、大化年号も使った。この時期の『日本書紀』を記した際、唐も大化の天皇や元正天皇にとっても、蝦夷と入鹿の統治の痕跡を残せなかったのだろう。倭国は670年文武王十年十二月に、「倭國更號日本」と国号が変わった。
648年以降、東夷伝に倭国は記載されない。史書は利害に関わるため、歪めて記述されることがある。従って、利害が無い中国史書や朝鮮史書の日本像が『日本書紀』より正しいと考えられる。逆に、書かれなかった部分には、正しい史実が隠されている可能性がある。書かれなかった蝦夷と入鹿の歴史は、『家伝』の短命な2天皇の間にあった。
『家伝』は俀国、後の日本国の皇統を記述していると思われる。そのため、崗本天皇は智奴王、「崗本天皇崩皇后即位」の皇后は吉備姫と考えられる。「後崗本天皇四年」は俀王の天万豊日の年号と考えられる。664年6月の乙巳の日晦日に郭務悰の指示でクーデターが起こり、嶋皇祖母と大紫蘇我連大臣が殺害された。紫冠を賜った人物は、入鹿と鎌足のみで、入鹿は連も名乗った。物部大臣を弟と記述するが、代理の大臣が2人は奇異で、2代目豊浦大臣蝦の弟、鎌媛の子の入鹿が物部大臣と考えられる。
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