『古事記』に登場する国と『三國志』に登場する国は、異なる対象を指していたが、共通点がある。それは官位で、對海國や一大國の卑狗、伊都國の爾支、投馬國の彌彌などが挙げられる。つまり、對海(対馬)彦、一大(壱岐)彦、伊都(襲)主、投馬耳となる。『古事記』や『日本書紀』には見られない官位としては、奴國の兕馬觚(しまこ)、不彌國の多模があるが、兕馬觚の「しま」は島(土地神)、国神の意味であり、觚(こ)は子、天国神の子、天子と同じ意味である。多模は「賜う」の官位を与える人の意味だろうか。邪馬壹國の官位は伊支馬、伊島(伊国神)であり、これは伊都に常駐する一大率の役職を指しているのかもしれない。副官の卑奴毋離も、『三國志』は将軍の様で、『日本書紀』は辺境を守る低い身分の扱いである。邪馬壹國王が神官、恐らく他の国々も、王は王妃の巫女と考えられる。
「一」と「伊」はどちらも読みは「yī」であり、異なる文字で表現されているため、異なる国を指している可能性が高い。当然ながら、壱岐の「壱」は「一」を指している。卑弥呼の名は『日本書紀』では「一国神夏磯姫(イクニカミナツイソ姫)」であり、壹国王になる那珂川の伊都(襲)姫も一大率を意味するのだろう。夏磯姫は「事鬼神道・・・於是共立爲王」と共立され、一国の「魁帥」になったと記述される。
神功皇后は「筑紫橿日宮時・・・更造齋宮於小山田邑」と小山田邑に齋宮を造ったとされる。「猪野皇大神宮」の齋宮の可能性が高い。息長帯日売は4世紀の人物であり、別の若狭の女王の事績と考えられる。『後漢書』に「立苏涂建大木以縣铃鼓事鬼神」、『三國志』に「名之爲蘇塗立大木縣鈴鼓事鬼神」と記述される。枝に矛や鏡や瓊を垂らし、そこを境に神域に区切ったとされる「蘇塗」は、二本の木を建てた門や鳥居を連想させる。
小山田邑に対して「穴門」にも山田邑が記述されて、出張所のような扱いである。齋宮を置く山田は、「山」の神を抑えるための宮のようだ。そして、「穴門山田邑」に齋宮を置いた王が「邪馬臺国」王だと考えられる。そして、200年には「穴門山田邑」に齋宮を置いていた王と思われる印岐美が、卑弥呼を女王と認めたと考えられる。『邪馬壹国』は201年に倭奴国の実権を握り、206年に承認されたと考えられる。これにより、東の「拘奴國」だった久努、久努直の祖の物部印岐美(猪君)がよく符合する。
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