『山海經』によると、日本には周饒国という武力を持たない中心勢力の国が有ったが、その背景には大人国という造船し市場を開いて貿易する国の存在があった。周饒国の神話が『伊未自由来記』であり、『古事記』は大人国から生まれた史書である。『伊未自由来記』に登場する始祖の木葉比等は神を生まず、神木の木根を立てたと思われる。その後、海人の佐神が於母島の東に住み、木葉比等の神木を「汝木(奈岐)」と呼んだと考えられる。佐神が於佐の奈神の奈美と呼ばれ、その場所が奈岐の浦であった可能性が高い。
その後、沖津久斯山祇が小之凝呂島の神として現れた。沖津久斯山祇は出雲の鞍山祇の神子であり、若狭の神のようだ。そして、於母の島の東大津に於漏知が襲来した。この際、流宮の加須屋の大神祇が援助し、その一族も多く島にやってきた。そして、宇都須山祇の子である大人様が加須屋大海祇の協力を受け、於母の島の王になった。つまり、沖津久斯山祇と宇都須山祇以外に神が生まれていないので、国を征服したときに、神が生まれたことが分かる。
そして、大人様の国生みの後援者は加須屋大海祇だった。この名前から、加須屋から大国に来た対馬の神を祖とする神であることが分かる。しかし、大神祇も大海祇も『古事記』には記述されていな。海神と対置されるのは山神と考えられ、海神は大綿津見、大海祇の次の世代神は山神と習合した大山津見と考えられる。大海祇は大神祇の次世代の流宮の神であり、大人様は大山祇の姫を娶っていることから、大山津見が流宮の神と推測される。
大綿津見の綿は、伝来が8世紀であり、古代には日本に綿布は存在していなかった。この「綿」は綿毛のような繭の絹糸のことと考えられる。『山海經』には、君子國の近辺に青丘國があり、「衣絲帛」と絹布を着ていると記されている。豊岡市には、仁徳朝から続く絹巻神社があり、かつての神社名は海神社であり、海神イコール綿津見と合致している。『三國志』に異文雜錦を中国に献上し、吉野ケ里遺跡には絹織物が出土していて、中国製と糸使いが異なる。
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