2024年12月30日月曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話12 伊迦賀色許男

   大綜杵の子供には、伊迦賀色許賣と伊迦賀色許男がいる。『古事記』によると、孝元天皇の時代の妃である内色許男の娘の伊迦賀色許賣の娘は、当然のことながら、『舊事本紀』に記される開化天皇の時代の妃、大綜杵の娘である伊迦賀色許賣と考えられる。

つまり、孝元天皇の時代における大綜杵の妃は、内色許男の娘である伊迦賀色許賣であり、彼らの子供である比古布都押之信は伊迦賀色許男にあたる。跡取りとなる姫である伊迦賀色許賣については、記述が残されていない。これは、跡取りの姫は記録しないというルールによって記述されていない可能性がある。神武から孝安天皇まで、1王朝に数代の皇位継承が有ったと考えられるのに、姫は全く記述されないのが証拠である。跡取りの姫が後を継げば王朝は続くため、特に記述する必要がないからだ。しかし、跡取り以外の者が後を継ぐ場合は、王朝が変わることになる。

したがって、伊迦賀色許賣もまた分家王朝に属すると考えられる。内色許賣の跡取りの姫は『古事記』には記述されていないが、跡取りは倭迹迹姫であったと推測される。そして、『古事記』には記載があるものの、『日本書紀』には「天皇の母弟」とされる少名日子建猪心についての記述がない。

さらに、『紀氏家牒』には「孝安天皇曽孫屋主忍武雄心」が記されており、建猪心が武内宿祢の父であることが述べられている。武内宿祢の父は比古布都押之信、孝安天皇の曽孫は『古事記』に少名日子建猪心が曽孫として倭迹迹姫の代わりに記述されている。このように、倭迹迹姫の婿が比古布都押之信であることが証明されている。つまり、倭迹迹姫は葛城之高千那毘賣であり、倭迹迹姫と父も母も異なり兄妹ではない。すなわち、輕堺原宮天皇の妃は内色許賣であり、伊迦賀色許賣で無かったように、春日伊邪河宮天皇の妃は其々異なる王の妃とわかる。

内色許賣は波延王朝の後継者の蝿伊呂泥娘で、倭迹迹姫はその後継者、波延王朝は丸迩臣の祖の帶日子國押人もその一人だった。すなわち、丸迩臣の祖の後継者の倭迹迹姫は意祁都比賣だった。

2024年12月27日金曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話11 二重権力

  大臣の就位は、出雲色が懿徳2年の遷都後すぐに、出石心は孝昭天皇の治世の初年に大臣に就位しているが、内色許男は、恐らく、孝元8年に2代目が皇位継承した時に大臣となっているようだ。また、同時に大綜杵が大祢になって、大祢の名は安寧4年に出雲醜が政大夫に就位した時、初めて侍臣となって出来た。大祢は皇后()に仕える、神に準ずる人物であると考えられる。

懿徳天皇の治世には大祢の役職が存在しないため、大臣がその役割を兼務していたようだ。大綜杵も同様に、開化天皇の治世8年に大臣に就位しており、二名の武建と大峯が大祢となっている。これは皇后が二人いて、朝廷が分裂していたことを示唆している。大綜杵は内色許男が大臣に就位した時に大祢になっており、物部氏にも二重権力が生じたと考えられる。

また、穂積臣の祖の子孫として若帯日子の義父の建忍山垂根が存在する。彼の娘である弟媛(『古事記』では弟財郎女)は阿波君の祖である息長田別を生み、その子が杙俣長日子、その子が飯野眞黒比賣、その子が須賣伊呂大中日子、その子が迦具漏比賣だ。ところが、迦具漏比賣は先祖返りして、若帯日子の親の大帯日子の妃となり、彼女の子供が大江王、その子が大中比賣、その子が仲哀天皇の子の香坂王と忍熊王だ。忍山垂根の後裔が忍山垂根の義兄弟というのは矛盾している。

この建忍山垂根は、世代的に見ても成務天皇や倭建の義父の世代である。それなのに、迦具漏比賣の夫の大帯日子より前の人物では矛盾しているが、景行時に迦具漏比賣、成務時に大江王、仲哀時に大中比賣は世代に矛盾はない。迦具漏比賣以前を遡ると、景行時に迦具漏比賣、垂仁時に須賣伊呂大中日子、崇神時に飯野眞黒比賣、開化時に杙俣長日子(武建大尼)、孝元時に息長田別(内色許男)、孝霊時に弟媛(大水口の娘の坂戸由良都姫)、孝安時に建忍山垂根(大水口)と考えれば合理的である。ここでも、二つの勢力が残した系図を合成しており、物部氏に二つの権威があった。

2024年12月25日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話10 某姉の子と某弟の子

物部氏の大臣として、出石心の次は内色許男である。孝昭天皇の娘婿である蝿伊呂杼は、奧津余曾の子だと考えられ、次の天皇である孝安天皇は彦國押人である。王朝が交代したのだから、皇后が蝿の妹になり、妹婿は奧津余曾の皇子だったと考えられる。つまり、跡取りである娘婿の蝿伊呂泥が出石心の後継者であり、孝安天皇の治世において臣下として宿祢を賜姓されたことを意味する。三見宿祢も波延の後継者であり、次代の蝿伊呂泥、姉の婿である大水口や、次代の蝿伊呂杼、妹の婿である孝霊朝の宿祢の大矢口である。

大水口は穂積臣の祖であり、子供がいないとされているが、穂積臣の祖には内色許男や建忍山垂根がいて後継者がいた。大矢口の妃である坂戸由良都姫は、大水口の娘である可能性が高い。坂戸造は「五部造爲件領卛天物部天降供奉」と記述されるように坂戸造が物部氏の支配下の五部にあることから、その首領が大水口宿祢であると考えられる。すなわち、大矢口が姉の婿であると推定され、彼らの子供に孝元朝の大臣である内色許男と、皇后である内色許賣がいるが、大綜杵は開化朝の大臣であり、世代が異なる。

『古事記』には「娶内色許男命之女伊迦賀色許賣」とあり、『舊事本紀』には「伊香色謎命大綜杵大臣之子」と書かれている。つまり、内色許男の娘である伊迦賀色許賣が大綜杵の妃となり、娘が襲名した伊香色謎であるとすると、理にかなっている。内色許男の娘と内色許賣の皇子が結婚し、2代目の内色許賣と次女である伊迦賀色許賣が生まれたと考えられる。このような継承方法が、孝元天皇の治世で57年間にわたって繰り返された可能性がある。

内色許男の長男は内色許賣の娘に婿入りする。玖迩阿禮比賣の婿である絚某姉の大矢口の娘が内色許賣である香媛の可能性がある。また、日子刺肩別が内色許男である可能性も高い。同じように、蝿伊呂杼の子である日子寤間が開化朝の大臣の大綜杵である可能性が高い。頭に国名が付かない日子は唯一無二の天皇や大臣である。

2024年12月23日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話9 「一書云」の意味

  『日本書紀』によると、安寧から孝安天皇にかけて、懿徳天皇を除き、すべての天皇の皇后の父は「波延」であり、懿徳天皇は波延の弟だったと記述されている。これは懿徳天皇が分家にあたり、他の天皇は波延の娘婿が皇位を継承したことを示唆している。

安寧天皇の治世38年間では、初代安寧は波延であり、皇后は神氏の渟名底仲媛だ。波延の妹の子であり、また、娘婿である玉手見が2代目の天皇になった可能性が高い。それが、『日本書紀』の推定が「一書云磯城縣主葉江女川津媛」で、川津媛が阿久斗比賣であった可能性が高い。王朝は娘が相続し、もし分家した娘以外に相続する直系の娘がいなければ、王朝の交代が起こる。

綏靖天皇の治世33年間では、初代天皇は日子八井で、皇后は五十鈴依媛だ。2代目の天皇も皇后は変わらず當藝志美美だ。磯城縣主の阿多氏の久流久美は日子八井または當藝志美美のいずれかであり、その娘婿が彦湯支だ。彦湯支の妹は河俣毘賣、彼女の婿が3代目綏靖天皇の沼河耳だったと考えられる。これが、「磯城縣主女川派媛春日縣主大日諸女糸織媛」の記述と考えられ、子供が春日縣主に婿入りしたと考えられる。

懿徳天皇の治世34年間では、初代懿徳天皇である出雲醜の妃は、倭志紀彦の義妹である真鳥姫(天豐津媛)だ。出雲醜は波延の男弟(もしくは義理の妹婿)であり、その名は猪手と呼ばれたのだろう。2代目懿徳天皇は、猪手の娘である泉媛の婿で、もし泉媛が沙麻奈姫であれば、建飯勝が候補の一人だ。この建飯勝が、「磯城縣主葉江男弟猪手女泉媛」の記述に該当し、皇子が師木縣主の祖の賦登麻和訶比賣の娘、「磯城縣主太眞稚彦女飯日媛」と鋤友の娘に婿入りした可能性がある。

同様に、初代孝昭天皇は波延の和知都美であり、皇后は世襲足媛だ。娘婿である蝿伊呂泥は奧津余曾の子供であったと考えられる。この関係が「磯城縣主葉江女渟名城津媛」の記述に合致し、これらの関係が83年間にわたって続いていたと考えられる。

孝安天皇も「磯城縣主葉江女長媛」とされており、波延の朝廷が存在していたが、王朝は蝿伊呂杼、すなわち、分家した次女の婿に交代したと推測される。

波延の朝廷は「十市縣主五十坂彦女五十坂媛」と十市縣に皇子が婿入りすることで終焉を迎えた。孝霊天皇は波延の朝廷の分家である十市縣主の祖の娘を妃とし、新しい王朝を開いた。この新しい王朝が「春日千乳早山香媛」と春日縣主に婿入りした阿多氏の後裔の王によって始まったと考えられる。

2024年12月20日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話8 王朝の皇位継承

孝昭天皇の妃は、奧津余曾の妹である世襲足媛だった。つまり、孝昭天皇である出石心は奧津余曾と義兄弟の関係にあった。『古事記』では、孝昭天皇と同時代の多藝志比古について記述されている。この多藝志比古は葛木氏の項目で言及した、天忍男と考えられる。また、天忍男の兄が天忍人で、その妃は異母妹である葛木の出石姫(角屋姫)であった。すなわち、天忍男の妃の賀奈良知姫と出石姫と姉妹である可能性が高い。『古事記』では、多藝志比古が御眞津日子の兄弟として描かれ、出石姫は孝昭天皇の皇后である世襲足媛である可能性が高いと考えられる。

もし、葛木の池心宮の出石姫の夫が出石心であり、彼が天皇であったならば、地名「出石」と「心」宮の名を持つ天皇であることが理に適っている。淡海の葛川近辺に読みは異なるが小出石越えや小出石橋がある。

在位83年の皇位は4〜5代にわたって続く。世襲足媛の子は波延の娘に婿入りし、後に倭国豐秋狹と呼ばれた、秋津島に婿入りして王朝交代と2代目以降の天皇は波延の娘婿であったと考えられる。そして、その娘婿が奧津余曾の皇子であった可能性が高い。奧津余曾は『舊事本紀』によれば大連や大臣であったことから、この時期に権力の移動があったと考えられる。すなわち、奧津余曾・葛木彦の皇子と世襲足姫の娘との婚姻による継承で、秋津島に住む波延の分家の娘の押姫に婿入りして王朝交代が起きた。

また、『舊事本紀』では出石心が出雲醜の兄弟と記述されているが、懿徳天皇の義兄弟である師木津日子が出石心に該当する。しかし、出石心が孝昭朝の大臣であることを考えると、2代目の出石心も存在し、孝昭天皇の世代で2代目の出石心として和知都美が孝昭朝の大臣、すなわち天皇になった可能性が高い。

孝昭天皇・和知都美の後継者が蝿伊呂泥と蝿伊呂杼であり、前代の安寧天皇(縣主波延・彦湯支)の継承者も波延の娘婿の懿徳天皇が蝿伊呂泥か蝿伊呂杼であった。安寧・懿徳の王朝は40年弱の期間なので、初代の王と皇太子の2代が天皇の可能性が高い。すなわち、天皇の妃が波延の娘、皇太子も波延の娘の子であった。

2024年12月18日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話7 娘婿による皇位継承

懿徳朝の大臣である出雲醜の後継者は、娘の沙麻奈姫の婿である建飯勝だった。しかし、彼の孫である建甕槌と、劔根、高倉下らによって大臣の地位が奪われた。そして、彼らが奪った大臣の地位を継いだのが、孝昭朝の大臣である出石心である。つまり、出雲醜の時代から、政大夫として唯一無二の最高権力者が食国の政大夫から大国の大臣の地位に就き、唯一無二の大臣の出雲醜が懿徳天皇と後代に呼ばれ、その次の大臣の出石心が孝昭天皇と後代に呼ばれたと考えられる。その為、出雲醜と出石心が兄弟として、世代を被せた。

出石心の母、恐らく義母は川枯姫で、妃は新河小楯姫だ。これに関連する神社として、野洲川沿いにある川枯神社と新川神社が挙げられる。川枯神社は甲賀にあり、現在では川枯姫を祀る八坂神社に合祀されている。また、建甕槌は伊勢主幡の娘である賀貝呂姫の婿になり、伊勢の神麻績連の祖である八坂彦は尾張氏である。興味深いのは、幡(ハタ)と波延(ハエ)、田と江が違うだけの名前の類似や、孝昭天皇の皇后の兄が尾張氏の祖であり、後の時代に八坂入彦が生まれたことが偶然とは思えない点だ。

そして、建甕槌が妃の出身氏族の尾張氏に皇位を譲るのは理にかなっている。新川神社は、甲賀から下流に遷された神社であり、小楯姫を祀っている。川枯神社は水口にあり、出石心の子の名が大水口であることも偶然とは思えない。そして、和知都美がいた御井宮のあった場所が伊勢遺跡の伊勢と考えられる。

さらに、師木津彦は懿徳天皇との姻戚関係を結ぶことができなかったため、曲峽宮を離れ、川枯姫の宮の小楯姫に婿入りしたと考えられる。師木津彦には2人の子がいたが、そのうち1人は不明だ。しかし、跡取りの姫は川枯神社と同じ地域にある新川の小楯姫を襲名した姫であった可能性が高い。波延の故地である葛木の池心宮には和知都美が婿入りし、出石心大臣となったと考えられる。池心宮の名も池の「心宮」とも読め、出石心が心宮王のように記述され、無関係とは考えられない。

2024年12月16日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話6 息石耳の矛盾

『日本書紀』では、安寧天皇の子を息石耳と懿徳天皇と記しているが、「一云」では常津彦某兄、懿徳天皇、磯城津彦としている。しかし、懿徳天皇の皇后が息石耳の娘であるため、息石耳が懿徳天皇の兄弟であるとの説明文には矛盾が生じる。むしろ、息石耳が先代の河俣毘賣の夫の沼河耳であり、息石耳の兄弟は懿徳天皇ではなく、義兄波延の安寧天皇である可能性が高い。懿徳天皇の妃は息石耳の娘の天豊津媛に「一云」で波延の娘ではなく、波延の弟の娘と記述され、波延の義弟は沼河耳で沼河耳が息石耳と合致する。

すなわち、安寧天皇の子は、常津彦某兄、懿徳天皇、磯城津彦であり、これは『古事記』や『舊事本紀』とも一致する。某兄は姉の夫を意味し、某兄の義弟は磯城津彦または懿徳天皇である。さらに、磯城津彦には義妹の「(倭志紀彦妹)真鳥姫」が存在し、懿徳天皇はその某弟であると考えられる。師木縣主の祖の河俣毘賣の娘が真鳥姫、すなわち、天豊津媛である。

すなわち、懿徳天皇は真鳥姫の夫の出雲醜であり、政大夫の地位を継承し、さらに大臣となった。これは古代の王位継承の方法に従っている。すなわち、出雲醜の母の出雲色多利姫は彦湯支の妃ではなく、娘の真鳥姫の夫の母、義母である。同様に、出石心の母の淡海川枯姫も彦湯支の妃ではなく、子の磯城津彦の義母と考えられる。

すなわち、磯城津彦は、淡海川枯姫の娘と婚姻し、出石心(和知都美)が生まれたと考えられる。和知都美の子である蝿伊呂泥と蝿伊呂杼が波延の姉の夫、妹の夫であり、波延の継承が確認される。

出雲醜は懿徳朝の大臣であり、出石心は孝昭朝の大臣だ。この二人の間には一世代の差があり、出雲醜の義兄である磯城津彦の子が出石心である場合、その世代の差に説明がつく。

2024年12月13日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話5 天皇の意味

  彦湯支は、日子八井が亡くなった後、その地位である政大夫を継承したと考えられる。この政大夫という役職は、皇后の夫や()兄を意味する可能性が高い。安寧天皇は国名がつかない縣主波延と考えられ、彦湯支の妃は日下部馬津の娘である阿野姫だ。この阿野姫の名前は、阿多君の姫にふさわしいもので、後代の日下部連使主の子が吾田彦、阿多氏であることから、この系譜が裏付けられる。

天日方奇日方(別名阿田都久志尼)の娘の渟中底姫は安寧皇后となった。つまり、安寧天皇は日子八井と比賣多多良伊須氣余理比賣の娘である渟中底姫を皇后としたと考えられる。また、彦湯支が同じ世代でその夫であったとするならば、政大夫を継承したのも合理的だ。

神武天皇の時代には、天皇という呼び名はまだ無く、氏族によって政大夫、日子、縣主などと呼ばれた可能性が高い。唯一無二の支配者には国名を付けずとも支障はなく、従属者に国名が無い場合には成り立たない。たとえば、大国を付けて大国主と呼ばれるように、特定の大国という名称で認知出来た。宇摩志麻治は可美眞手とも呼ぶが、「ヂ」は土地神、「手」は補佐、食国第2位を意味し、それを、『舊事本紀』が政大夫と呼んだのは、食国から独立して最高位になったからなのだろう。

阿田都久志尼は阿田の津の櫛国の尼で、奇日方も同様に唯一無二の名ではないが、日子八井は綏靖朝の同世代に日子がいないため、天皇と呼ばれる資格がある。彦湯支も同様で、同じ安寧世代に縣主波延がいれば、どちらも唯一無二なので同一人物の天皇と呼べる可能性が高い。もし、2王朝ならば、政大夫に匹敵する人物が存在する。

比賣多多良伊須氣余理比賣の子の沼河耳は、安寧天皇と思われる波延の妹の河俣毘賣を妃にした。その子の玉手見が安寧天皇の娘と思われる阿久斗比賣を妃としたことで、大神氏、阿多氏、物部氏の3つの家系が婚姻関係を通じて一体化した。

2024年12月11日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話4 政大夫

  宇摩志麻治は活目邑の五十呉桃の娘である帥長姫を妃とした。帥長姫も、事代主の妃である活玉依姫も同じ活目邑の出身と考えられる。五十呉桃は若狭の恐らく生倉に饒速日と共に天降りし、活玉依姫の姉妹に婿入りした可能性が高い。玉姫は美豆別之主が玉造部を率いて隠岐を統治したように、玉造部を統治する王を意味するのだろう。

事代主は玉櫛媛を妃にしたという記述もある。2代目事代主が櫛川に遷り、活玉毘賣の娘の玉櫛媛と婚姻した可能性がある。従って、宇摩志麻治は活玉依姫の娘である蹈韛五十鈴命と従妹の関係になる可能性が高く、世代的には事代主の娘である蹈韛五十鈴命と同世代だ。活玉依姫の子である天日方奇日方は、活玉依姫の義兄である五十呉桃の娘を妃にした可能性があり、そうであれば宇摩志麻治とは義兄弟の関係になる。政大夫位が天日方奇日方に移ったのは、姻戚関係があったと考えるべきだ。新しい権力者は前代の権力者との婚姻によって、継承する方法が最良である。

宇摩志麻治は食国の最高実力者である政大夫の地位を得た。政大夫の地位は皇位と同様に継承される。初代の天日方奇日方が宇摩志麻治の後を継いで政大夫・阿田都久志尼(櫛尼)、になって、玉櫛媛の尼、すなわち婿を彷彿とする。古代の王位継承法は、2代目天日方奇日方が1代目の妃の兄弟の娘に婿入りして、若しくは、その逆で継承する方法だった。政大夫の地位は神武朝76年間で親子の年齢差から考えて4代程度継承されたと考えられる。同時に最高権力者の政大夫が2名存在するのは理解できないが、継承されたのなら理に適う。

5代目天日方奇日方である日子八井が綏靖天皇の尼であり政大夫にもなり、彦湯支が足尼となった。神武天皇は三島溝咋の娘である活玉依媛の()妹の勢夜陀多良比賣、その娘の富登多多良伊須須岐比賣を妃とした。宇摩志麻治から天皇の璽を譲られた天日方奇日方は大臣の歴史を記述した『古事記』の初代大臣と同等の神武天皇に相当し、その子が日子八井であることと一致する。さらに、天日方奇日方の後裔の飯賀田須が大物主で天日方奇日方の義父が大物主なら、名前の継承法として理に適う。五十呉桃が大物主ならば、勢夜陀多良比賣を妃にして、婿が大物主の祖の天日方奇日方と宇摩志麻治ということになる。

2024年12月9日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話3 饒速日

美豆別之主と同祖の子である狭霧の子、速日別出身の神の末裔の忍穂耳は、同じ速日別の神を祖とする高御産巣日の娘、萬幡豐秋津師比賣に婿入りした。彼らの子である饒速日は、天火明櫛玉饒速日と記されているように、迩迩藝や火照と同世代の「櫛王」であると考えられる。

『舊事本紀』では、火明は尾張氏と同祖と記されている。そのため、火照と同世代と考えられる。『日本書紀』でも、火明と火照(火闌降)は兄弟と記述されているので、火照の妃と饒速日の妃が姉妹である可能性が高い。

奈賀命に追放された饒速日は、迩迩藝と火照の2世代にわたり兄弟に描かれている。したがって、初代饒速日は迩迩藝と同世代で、尾張連の祖である道氏の姫を妃に迎え、火照と同世代の2代目の饒速日は「中州豪雄長髄彦」の妹、長髄媛を妃にした。

この「長髄姫」は仲国の長州根、すなわち長門の姫と考えられ、長門は熊襲、豊国の姫、つまり「豊玉姫」である可能性が高い。豊玉姫の兄は大国の王になった太玉と考えられ、彼女の娘か妹が不合命の妃の玉依姫だと推測される。また、道臣の祖と思われる道氏の母は、前の代の豊玉姫である可能性もある。火明を火照や火火出見の兄弟にいれたのは、2代目の豊玉姫と兄弟だったからと考えれば理解できる。史書の世界で玉姫と書けばどの氏族の襲名される姫か特定できたと考えられる。

2代目の饒速日は豊国の長門から敦賀の「櫛王」・武位起となり、その子は『舊事本紀』によれば、神武天皇の狭野尊である宇摩志麻治なのだろう。久州から井ノ川に天降った食国配下の神が武位起なのだろうか。2代目饒速日は師木・野洲の御炊屋姫を妃にすることで政大夫の権力を得たようで、饒速日は、事代主と大国主の力を抑えて自らの権力を固めた。その過程で、火照の子である三国王の阿多小椅君は、事代主の娘である蹈韛五十鈴命を妃とした。また、饒速日の子である宇摩志麻治は、食国王の璽を小椅君に献上して、政大夫の地位を得た。なお、ここで言及されている「君」という称号は、君子国、すなわち三国の王を指す名称で、王と区別されており、小椅君以外、同世代に存在しない。

2024年12月6日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話2 美豆別主の分祀の大伴氏

  美豆別主は、於漏知と友好関係を築いていたが、天菩比の若狭侵略によって出雲で大乱が発生し、大山祇大神の勢力が衰退した。その結果、大国主の孫、阿遅鍬高彦根の子である奈賀命が食国の王位を奪い取った。この情勢に対抗して、天津國玉の子である若狭日子は、大国主と多紀理毘賣の子である阿遅鍬高彦根の妹、下光照比賣に婿入りして、大国主を継承して若狭王となった。

下光()比賣は大国主の娘であり、その子も大国主を襲名したと考えられる。若日子の父の天津國玉は天津神の末裔(御子)、やはり天津神の御子である美豆別主と同祖の同世代である。前王家の沖津久期山祇の海部首は阿曇首に姓を変え、筑紫で生まれた綿津見の子の宇都志日金拆に婿入りして志賀島に移住して、綿津見を祀っている。また、美豆別主の前の世代と思われる八束水臣津野命は国引きに速日別国も含む三身国の協力を得ているので、天津國玉もその近辺の出身だと推測される。

美豆別主の祖神である天祖天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊は、久米部の祖神として隠岐で祀られたと『伊未自由来記』に記されている。また、斯香神を祀る阿曇首と共に筑紫に降臨した可能性が高い。美豆別主は、奈賀命によって滅ぼされたが、久米部の祖神となり、後に伴首と賜姓された。出雲の大乱は丈夫国、周饒国の力が衰え、君子国と大人国の勢力が強まった。

美豆別主は分祀され、久米部を率いて息長足姫に兵船の管理を任された。後に、この美豆別主の分祀の後裔は、磐余稚櫻宮の時代に大伴部首に賜姓された。これにより、大伴氏は高千穂宮への侵攻と、362年に崩じた息長足姫との東征を通じて大伴連となったことが示されている。

つまり、美豆別主の分祀を祀った大伴連の祖の天忍日が伴首を引き連れ、筑紫の日向の高千穗の久士布流多氣に天孫降臨を行った迩迩藝命であった可能性が高い。

2024年12月4日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話1 美豆別主

物部氏の祖神は、天祖天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊である。これは、物部氏の史書である『舊事本紀』の冒頭に記述されており、他の氏族の祖神について記載する理由はないため当然である。『舊事本紀』の豊玉姫の子は葺不合だけではなく「大和國造等祖」の武位起を生み、神武天皇は彦火火出見でも若御毛沼でもない狭野尊である。大倭ではなく、大和國造の祖なのだから、首都奈良県の王、すなわち、武位起は天皇の祖である。

天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊の名前の由来は、神の名が履歴を表すことから、まず海()神の、恐らく、加須屋の大海祇から譲られた日国(速日別国)神であること。そして、対馬の月神である月讀から国を譲り受け、食国(隠岐)を治める王となった狭霧尊であることを示している。このことから、彼の出身地は加須屋の日国(速日別国)であり、後に隠岐の王となった大人様・奈岐命の氏族の祖神である。

さらに、『舊事本紀』には、後裔の饒速日が高天原で生まれたと述べられている。速日別国の狭霧は、「洞此云久岐」とあるように、熊鰐が神功皇后を迎えた場所、「拘奴國」(洞海湾)の地域にある国だと推定される。そこから、天物部を率いる25部族の一部である久米物部が、綾部・工部・玉造部を伴い、隠岐(食国)に侵入し、月讀から国を譲られた美豆別主と呼ばれるようになった。美豆別主は三国(敦賀)の津の王の分国王を意味し、饒速日の国(敦賀と若狭を併せて二岐と呼ぶ)の分国と主張している。

美豆別主は、大人様・奈岐命の娘を妃に迎えた天津神の神子である。彼は(伊邪)那岐から生まれた津の神、天之狹土の子の国之狹霧尊を祖と呼んだ。美豆別主は、このような神々の系譜に属している。

天照大神と須佐之男命が生んだとされる神子たちは、「吹棄氣吹之狭霧所成神」という記述が示す通り、狭霧神から生まれた存在である。その中には、天菩比や饒速日の父であるとされる、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳も含まれている。美豆別主は前王家の奈岐浦命を「小之凝呂島海部首」、そして沖津久期山祇神を「小期凝呂山祇首」に賜姓し、3つの小島を統治させた複数の国を統治した王である。

2024年12月2日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話11 朝鮮の神話との関連

  朝鮮神話との関連も興味深い。『三国遺事』によれば、朝鮮民族の朝鮮半島での始祖・檀君の妻は「熊女」とされている、女王が熊という表現は奇妙だ。『山海經』には、檀君が建国した当時、その地には「鬼国」があり、『後漢書』・『三國志』が記述する、天神を祀る天君、鬼国の末裔の姫が熊女だったと考えられる。『山海經』は言う。神が生まれたのは六合、黄海と日本海が重なる島々や海岸だと。

後に漢字が導入され、「拘奴国」が「熊襲」と呼ばれるようになり、この熊襲人の姫が「熊女」として語られるようになった可能性が高い。熊女は拘魔日女、魔は縄文人の神を中国人が言う漢字である。魔は「アマ」・「ヤマ」・「シマ」などの「マ」と同じで、住んだ場所を神の土地と表現したものである。

中国人が神の子の天子を戴いているのに、朝鮮に神()の王()を認めるはずがない。天神は倭人が祀る神と同じ神を祀ったもので、君は日本語の木神を意味したと考えられる。檀君は「マユミの木の神」を意味する、弓の原料の神である。中国の神は帝だ。

『三國史記』も扶余から、朝鮮半島に遣ってきて、先住民族の土地を奪い、また、婿入りして、篭の姓を賜姓され、朝鮮語の朴を名乗ったと記述されている。衛満も中国からの侵入者で、檀君は箕子朝鮮王を述べたものなのだろうが、箕子朝鮮は木神(鬼神)を祀る天君()が統治する、『山海經』が記述する鬼国の可能性が高い。君子国に王と認められた始祖が、君子国の王の君と同じ称号を持つ檀君なのだろう。

このように、中国、日本、朝鮮の神話にはつながりがあることが見えてくる。 中国に天子が存在しない天民の国と言われた『山海經』の神話時代に王が帯冠した丈夫国・周饒国・君子国が存在した。それらの地域に複数の配下の国を持つ倭国・拘奴国・東鯷国があった。

2024年11月29日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話10 中国の神話と君子国

  孔子の言行録である『論語』には、理想的な人物像として「君子」について多く述べられている。後世の人々は、この「君子」を孔子が理想とする天子像と解釈している。しかし、中国神話の『山海經』には「君子国」という国が記されており、漢代の人物たちは、孔子の語る「君子」が実際にはこの君子国の王を指していると考えた可能性が高い。

抽象的な君子像を述べるのではなく、孔子が中国史に名を残す文命、天乙、周武王といった偉大な王たちを直接称賛すればよいが、孔子は君子を理想とする。これは、紀元前500年頃には、「君子」といえば多くの人が具体的にその存在を知っていたと推測される。そしてその「君子」は、『山海經』に記載された君子国の王であったという仮説が浮かぶ。もし、中国人が知らない理想の国王なら、君子の前に説明書きが必要だ。「尊敬できる君子」、「本来の君子」などである。

しかし、『漢書』には、君子国はもはや存在せず、君子国を忘れ、「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國以歳時來獻見云」と記されている。東鯷国が君子国やその周辺の国々を統合し、漢が建国された紀元前200年代には君子国が東鯷国の支配下に入ったことを示している。孔子が居た紀元前500年も漢朝が出来た紀元前200年頃も都は輕にあったので、支配者が替わった。

孔子が生きた紀元前500年頃の日本では、孝昭天皇が君子国の天皇としての璽を建甕槌から受け継いだ。この頃、君子国の王は政権を失い、現代の島根県にあたる出雲に逃れたと考えられる。その後、彼らは『後漢書』に記録される拘奴国や熊襲の人々と合流した可能性がある。倭国は30国、東鯷国の20国を倭種と記述しないので、倭種の拘奴国が70国ならば『漢書』の「倭人分為百餘國以歳時來獻見云」と数が合う。金印は委奴国の倭種、後漢末に邪馬台国30国、倭種を纏めた委奴国王が大倭王・萩や長門にいた君子国の末裔なのだろう。

2024年11月27日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話9 大神君

  『日本書紀』には、安寧朝から孝安朝まで、1云で波延の娘が天皇の皇后で、孝霊天皇妃も磯城縣主の大目の娘と書き直している。そして、和知都美の子は蝿伊呂泥と蝿伊呂杼であり、和知都美が安寧天皇波延の継承者である。孝昭天皇は、奧津余曾の子と和知都美の娘が皇位を継承したと考えられ、和知都美の娘が『日本書紀』に記された波延の娘・渟名城津媛であろう。

安寧皇后渟中底姫は建飯勝の妹、その子の師木津日子の娘、和知都美の兄弟のもう一方の名前が不明の人物は、渟名城津媛の夫に奧津余曾大連がピッタリだ。沼河耳が建飯勝ならば、妹が渟中底姫、夫は安寧天皇波延、安寧天皇の娘も懿徳朝の波延の娘も「渟」の名を継承したのだろうか。

建飯勝の子の建甕槌の妃である伊勢幡主の娘の賀貝呂姫は、伊勢主の娘であり、伊勢神麻績連の祖である八坂彦が子孫だろう。八坂彦の母は尾張連の祖・意富阿麻比賣である。建甕槌の子は豊御氣主であり、孝昭天皇の皇后には、倭國豐秋狹太雄の娘・大井媛が記述されている。

孝昭天皇の在位期間が83年にも及んだため、5代程度の継承が行われたと考えられる。和知都美の娘と奧津余曾の娘、そして建甕槌の孫娘がそれぞれ皇位を継承していったのだろう。それが、一云の皇后なのだろう。

豊御氣主は、大伴氏の祖の忍日と丸迩氏、天豐津媛の兄と共に筑紫を攻撃し、王となった。そのため、「豊」の名を持つようになったと考えられる。豊御氣主と紀伊名草姫の孫である阿田賀田須は、和迩君の祖であり、曲浦の王になったようである。孝昭天皇の皇后の父である倭國豐秋狹太雄の存在も、この点で一致している。

忍日が造った高千穂宮は西暦125年に室見川の沿岸に永宮が建てられたため、その頃に滅びたと考えられる。高千穂宮の歴史は580年続いており、紀元前460年より前の孝昭天皇の時代に宮が開かれていたと考えられる。建甕槌の後裔である大御氣持は、出雲鞍山祇姫を妃にしており、出雲臣の祖である出雲主振根は筑紫国との往来があり、神寶を崇神朝に渡さなかった。この後、『後漢書』の時代に和迩君が筑紫の大倭王であったなら、これらの姻戚関係は理に適っていると考えられる。

2024年11月25日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話8 懿徳天皇

  政大夫は食国の賜姓を受けていたが、やがて、食国の配下でない大臣に即位することになった。天皇は権力が小さい宗教上の権威だったのだろう。出雲醜の妃は倭志紀彦の妹である真鳥姫であったが、倭志紀彦は師木津日子なのだろう。

鋤友の妃は師木縣主の祖である賦登麻和訶比賣であり、この構図は波延の妹である師木縣主の祖の河俣毘賣の事例に似ている。『古事記』の玉手見の子は鋤友と常根津日子の姉の婿であり、真鳥姫の夫、若しくは、師木津日子が常根津日子伊呂泥に相当すると考えられる。師木縣主の祖の賦登麻和訶比賣の夫の大倭日子鋤友が磯城縣主太眞稚彦であるならば、鋤友の子が出雲醜の娘・沙麻奈姫を妃とした建飯勝、太眞稚彦の娘・飯日媛が懿徳妃となる可能性が高い。

『日本書紀』が記述する「磯城縣主太眞稚彦女飯日媛」とあるように、鋤友の妃は賦登麻和訶比賣なので、鋤友が賦登麻和訶日子であったことになる。そして、その娘・飯日媛が2代目出雲醜の妃であり、義妹が沙麻奈姫である。懿徳天皇の在位期間は34年で2代の天皇がいたと推測され、建飯勝が懿徳天皇を継承したと考えられる。そして、次に皇位を継承するべき人物は、建飯勝と沙麻奈姫の娘であったが、長男の建甕槌が劔根と高倉下と共に反乱を起こしたようだ。

そのため、安寧天皇の後継者であった玉手見の娘の子である世襲足媛が皇位を継承したと考えるのが順当である。このように、初代の建飯勝と沼河耳が同一人物であると考えると、論理的に筋が通り、また、氏族の観点でも神沼河耳の氏は神氏なので、建飯勝の後裔である大友主が崇神朝で大神君を賜姓されている。

鋤友の子には、御眞津日子訶惠志泥と多藝志比古がいるが、多藝志比古は孝昭天皇の母懿徳皇后・天豐津媛の弟、息石耳の子だった。従って、多藝志比古も娘婿の可能性が高く、葛木氏の祖・劔根の娘の賀奈良知姫の夫の天忍男ではないだろうか。

玉手見とともに皇位を交互に継承しあった師木津日子の孝昭世代の子には、二人の王が存在した。一方の王は淡道の御井宮の王・和知都美であり、もう一方は不明であるが、恐らく、多藝志比古の娘婿の奧津余曾、当時の宮は首都を意味し、葛城の掖上宮を指していると考えられる。

2024年11月22日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話7 建飯勝の矛盾

  安寧皇后渟中底姫の婿は縣主波延であり、渟中底姫の兄・建飯勝は、出雲臣の娘である沙麻奈姫を妃にしている。しかし、崇神朝に記述される出雲振根も出雲臣の遠祖なので、出雲臣は懿徳朝の大臣である。そのため、皇后の兄である建飯勝が大臣の娘を妃にしていることは、世代的に矛盾することになる。建飯勝は皇后が叔母、懿徳天皇の娘婿・皇太子にあたる。

この矛盾を解消するには、建飯勝が襲名して2世代以上存在していると考えるのが理に適っている。建飯勝から建氏と氏族が代わっているので建氏は日向賀牟度美良姫の血筋である。賀牟度は「神門」で三国の皇族、阿多君の孫が相応しい。阿比良比賣、すなわち、阿多の比良姫と美良姫は名が似ている。したがって、1代目の建飯勝として相応しい人物は、日子八井が2代目天日方奇日方の綏靖天皇ならば、妃の伊須氣余理比賣の子である沼河耳は有力である。

沼河耳は、安寧天皇波延の妹の河俣毘賣を妃とし、その子である師木津日子玉手見は、その名からも王の側近であり、重要な役割を果たしていたと考えられる。玉手見は、安寧天皇波延の娘・阿久斗比賣に婿入りしている。

『日本書紀』において、安寧天皇の子は息石耳と懿徳天皇とされ、後に書き直されて常津彦某兄、懿徳天皇、磯城津彦としている。『古事記』が息石耳を記述していないのは、皇位継承の常道に従い、安寧天皇の娘婿である玉手見(息石耳)が皇位を継承して2代目安寧天皇だからなのだろう。つまり、安寧天皇の子は阿久斗比賣、常津彦の某兄の玉手見(息石耳)と妹の真鳥姫、すなわち、常津彦の某弟の懿徳天皇と師木津日子(常津彦)であると推察される。

安寧朝が38年続いたため、2世代程度の継承があったと考えられる。波延の娘の阿久斗比賣の夫、玉手見(息石耳・2代目波延・師木津日子の義弟の猪手)の娘の泉媛と師木津日子との娘である天豐津媛(真鳥姫)が出雲醜妃となり、本来は皇太子である師木津日子が即位するはずであった。しかし、彦湯支と同様の政大夫だった出雲醜は大臣になった。すなわち、襲名した2代目師木津日子は、妹の婿の政大夫の出雲醜に皇位を奪われたのではないかと考えられる。宗教上の天皇は大祢の可能性が高く、醜の名前が安曇川周辺で祀られる「しこぶちさん」ならば、大祢が「彦根」だったのではないだろうか。

2024年11月20日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話6 天日方奇日方の矛盾

  天日方奇日方が神武朝と綏靖朝の2世代にわたって存在しなければ、いくつかの矛盾が生じた。天日方奇日方の娘と、媛蹈韛五十鈴命の皇子との間に神武朝最後の天日方奇日方の子の日子八井が生まれた可能性がある。神武朝が76年にわたって続いたため、約4代の世襲があったと考えられるので、日子八井が天日方奇日方の子で襲名したことに矛盾はない。日子八井と伊須氣余理比賣とは従兄妹の関係で、伊須氣余理比賣は分王朝なので、天日方奇日方と呼ばないで日子八井と呼んだと考えられる。

美良姫との子の建飯勝は安寧天皇の皇后の兄なのだから、綏靖朝の鴨王、神武朝の天日方奇日方の子である。天日方奇日方妃の賀牟度氏の姫の子が鴨王なら良く当て嵌まる。日子八井は茨田連の祖であり、仁徳朝において茨田堤を築いた際に茨田連衫子を河神への生贄にした。茨田連は河内に住んでいた氏族であり、天日方奇日方の後裔である大田田根子も河内にいた。このため、日子八井が綏靖朝の天日方奇日方であれば、矛盾は生じない。

すなわち、綏靖朝廷の初期には、日子八井が天皇であったと考えられる。その後、阿多君の妹の子である當藝志美美が、綏靖皇后を妃として即位した。彦湯支は当初、綏靖朝の足尼であり、その後に政大夫となった。このため、綏靖朝の初めには、2代目の天日方奇日方、つまり日子八井が政大夫であり、彼が亡くなった後に彦湯支がその地位を継いだと考えられる。神武朝の時、天日方奇日方は政大夫ではなく、宇摩志麻治が政大夫だった。

その後、綏靖天皇當藝志美美は伊須氣余理比賣の子である沼河耳の反乱により敗北した。これにより、2代目の天日方奇日方の娘である渟中底姫安寧皇后が、夫である縣主波延と共に皇位に就いた。初代政大夫・宇摩志麻治の子(?孫)と義弟の沼河耳と共に、阿多君・鴨王(神君)の三国朝廷から物部氏の朝廷に権力が遷った。

2024年11月18日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話5 政大夫の矛盾

『古事記』の神国(三国)の倭の王の神倭毘古にとっての主君(天皇)は阿多君でその娘を妃にした。皇位は、宇摩志麻治から璽を得て皇后の媛を名乗った媛蹈鞴五十鈴命、前に国名が無い媛が天皇で、その婿が阿多君である。そして子供は二人、すなわち「彦八井耳」と「神渟名河耳」と記述されたが、五十鈴依姫は妹でなく娘で、綏靖皇后だったため、彦八井耳は婿の可能性がある。皇位継承は皇后の兄弟の子を婿にするのが基本的な力関係なので、阿多君の男子よりも、事代主の男子の血統が優先される。

したがって、天日方奇日方の長男が媛蹈鞴五十鈴命の長女に婿入りするのが通常の流れなので、彦八井が婿の可能性が高い。また、媛蹈鞴五十鈴命の長男は、弟の天日方奇日方の娘に婿入りするのが通常の流れ、その婿が政大夫天日方奇日方(阿田都久志尼)であり、神武朝の76年間は交互に継承されたと思われる。

『古事記』によると、伊須氣余理比賣の子は神沼河耳であり、彼の妃はまだ縣主になっていない、波延の妹である河俣毘賣だ。そして、『舊事本紀』にも同じく伊須氣余理比賣を媛蹈鞴五十鈴命の妹に記述するズレがあるため、伊須氣余理比賣の子が師木津日子玉手見ではなく、沼河耳である可能性が高い。

問題となるのは、天日方奇日方が神武天皇の世代でありながら、安寧天皇の父でもあることだ。これにより、神武天皇から綏靖天皇の2世代間で矛盾が生じる。したがって、天日方奇日方は2世代存在していなければ矛盾する。

天日方奇日方は食国の政大夫だった。天皇に対して、食国の大神の月讀が伊邪那岐に指名された最高実力者で、月讀に賜姓された政大夫が実質の天皇だった。政大夫の宇摩志麻治が食国から天皇の璽を媛蹈鞴五十鈴命に渡し、神朝廷が開かれた。おそらく、媛蹈鞴五十鈴命は天日方奇日方にも政大夫を賜姓したが、それは2代目の天日方奇日方だった。実際に成務を行うのは政大夫で、最高実力者なので、二人居るのは不自然だ。

2024年11月15日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話4 神武朝の矛盾

  国名がない「媛蹈鞴五十鈴命」が神武天皇である。史書を書いた人物にとって、誰もが知る最高位の人物の官位に国名など書く必要が無く、天皇(比賣・日子・縣主等)誰々だ。そうでない人物の官位には国名が付加される。『舊事本紀』によれば、事代主の子は「天日方奇日方」と「媛蹈鞴五十鈴命」であり、五十鈴依姫(伊須氣余理比賣)も媛蹈鞴(比賣多多良)を受け継ぐ姫だ。しかし、事代主の子は二児だったため、五十鈴依姫は媛蹈鞴五十鈴命の妹ではなく娘として記述されなければ、矛盾する。

すなわち、『舊事本紀』は媛蹈鞴五十鈴命を『古事記』の記述と合わせて、富登多多良伊須須岐比賣と同一人物としてしまったと考えられる。富登は神門(ミカド)に対する穂門の意味なのだろうか。媛蹈鞴五十鈴命の二児の子供には、五十鈴依姫と後継の長女の媛蹈鞴五十鈴命を襲名した媛が存在したのだろう。そして、『古事記』が記述するように、五十鈴依姫の子が神沼河耳だったと考えられる。日子八井命は襲名した媛蹈鞴五十鈴命の神八井耳は多藝志美美の娘婿の可能性がある。

『古事記』の神武天皇は神倭伊波礼毘古で、綏靖天皇は神沼河耳である。勿論、この名は臣下の名前で、神は「ミ」、君子国三国・神国を意味し、神国の臣下の倭の毘古であり、耳(三国の神)である。伊波礼毘古の倭は八国(野洲)を意味し、君子国配下の野洲の毘古(将軍)を意味し、伊波から野洲に遣って来た氏族を意味する。子の多藝志美美も若狭(出雲)の小濱に婿入りした耳(三国の神)、すなわち王族と言う意味だ。

神倭毘古は君子国の臣下であるが、神倭毘古の項に記述される王は阿多君のみ記述される。阿多君は出雲の大山津見の娘の神阿多都比賣の孫で、君は君子国の王の官位である。すなわち、君子国(神国)の王が阿多君ということになる。阿多君自体は阿多の君子国の王族だが、神倭毘古を配下に出来たのは、阿多君が媛蹈鞴五十鈴命の婿になったからと考えるべきだろう。

出雲は神倭毘古の頃は若狭にあったが、その出雲に神門臣という氏族がいたが、神の門は帝の意味で、初代天皇の一族がいた。門は河神の戸()なので、神神戸は意味不明、神国(ミクニ)の河神の「カ」の戸、「ミカド」臣が古い読み方と考えられる。神門臣の姫の名は大田田祢古の妃の美氣姫、気比の姫、崇神朝の頃の気比は神功皇后が伊奢沙和氣大神と氣比大神と名を交換する前なので大津にあった、大津の姫、大津に師木水垣宮があったと考えられる。

2024年11月13日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話3 神朝廷

  伊邪那岐が伊邪那美を葬る前に、杖から「岐神(船戸神)」が生まれた。『舊事本紀』には「投其杖是謂岐神」とあり、これが岐神だ。「港」を表すのに「岐」という漢字を用い、前に国を付けない岐神(キミ)の子の国が君子国を指すと理解できる。

岐神は三国(神国)の神、つまり三島溝咋などのことだ。「咋」は「君子国の神」を意味し、これは「熊や倉」の「ク」や、皇大神宮がある位川の「イ」と関連しそうだ。『伊未自由来記』の結果から、三島溝咋と出雲の大山祇との間には大乱が起きたが、美豆別之主、丈夫国の胸形の出身の高皇産巣日、そして八国の事代主との同盟によって勝利したようだ。高皇産巣日の孫の迩迩藝の妃は大山祇の娘の神阿多都比賣、迩迩藝は阿多氏の王になった。

高皇産巣日は「高皇」、恐らく、出雲氏を追い出して高浜王となった。神を皇に置き換えて「ミ」と読むようになったこの神は、三国の神ではなく、高浜に来た海神を指していると考えられる。『古事記』でも「御」という漢字を用いており、天照大御神と同じ表記法だ。そして、その部下である活玉命の妹、活玉毘賣と三島溝咋の間に生まれた娘が活玉依姫だったと考えられる。依姫の名は、王朝の分家の後継者を意味し、王権交代があったことを示唆している。それは、活玉依姫の娘の比賣蹈鞴五十鈴と夫の阿多君(君は君子国の王家官位)の神朝廷である。

また、番能迩迩藝と神阿多都比賣の子である火照は、阿多君の祖だ。世代から考えて、その子が阿多君であり、阿多君は三国の王、つまり三島溝咋の娘婿の王の可能性が高い。三島溝咋の娘が活玉依姫なら、活玉姫が跡取りだろう。そのため、火照の妃は活玉姫と考えられ、事代主と義兄弟になったと考えられる。さらに、天太玉の妹であると考えられる豊玉毘賣と火遠理の間に生まれた子が葺不合だったので、その妃が()玉依姫だ。自国の妃に国名を書くことは無い。

小椅君の妹である阿比良比賣の婿は高木神を祖とする人物だが、高皇産巣日の子には葛木氏の祖と言われる天活玉も存在し、この人物が高木神と考えられる。劔根の父は玉依彦、玉は王、王家の分家を意味し、玉依姫を継承している。

2024年11月11日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話2 君子国

  君子国は周饒国を「衣冠帶劍」という武力を担う「於漏知」を使って侵略した。黄帝は『山海經』に「天地鬼神是食是饗君子服之以禦不祥」として、不運を避けるために鬼神を祀り、君子も鬼神に服したとされている。日本人は「木神」を祀る国が君子国と理解したので王に君の文字を使ったと思われる。ここでの鬼神とは、木根()を神として祀る対象にしていることを指していると思われ、遼東半島にあった「鬼国」もまた、君子国の兄弟国であったと考えられる。この鬼国の本家が「於漏知」であり、三国の君子国がその鬼国を統治していた。

周朝は、東の「周饒国」(隠岐・あまねく豊かな国)に対し、西の周を名乗った。これは、後の殷を継いだ西周の話ではなく、黄帝が活躍した夏朝が開かれる前の出来事だ。

紀元前660年以前には『日本書紀』の内容を記録した文字に類するものがすでに存在しており、九州では延光四年、125年に篆書体を交えた文字が発見されている。篆書体が使われたのは秦までで、それ以前から文字を使用していたことを示す。正しい日干支とそれに付随した記事があるのだから、漢字でなくとも文字に類するものが無ければ記録を残すことは不可能だ。

隠岐の「食国」は、月讀や於佐の神が統治していたが、君子国に敗北した。『伊未自由来記』は交易によって、収まったと述べるが、実質は敗北と思われる。そのため、月讀や蛭子の説話がほとんど残されていないのではないだろうか。

対馬から遣って来た「津見」の一族、大山津美や加須屋の海祇(海の神)は牟遲や産巣日などの地名を持って移住してきた。アカホヤの噴火で逃げた人々も多く存在し、その一部が蓋州や朝鮮北部に逃げ、他の人々は黄海の朝鮮半島西南岸や済州島に逃れた。これが天(吾魔・倭)であり、日本海や太平洋沿岸に逃れたのが阿蘇(吾祖・委奴)であったと考えられる。天橋立にも阿蘇海が存在するのは、阿蘇の名を持って遣って来た痕跡かもしれない。

2024年11月8日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話1 日本語

  三国は『山海經』に記述される「君子国」と呼ばれる国で、周朝が理想とした国だったようだ。首都は敦賀であり、舟を造る「大人国」の隣に位置していた。この君子国の建国は1万年前にさかのぼると考えられる。木の葉比等がアカホヤで隠岐に到着した際、出雲にはすでに大山祇が存在し、それが大人国だったようで、君子国の兵士と思われる於漏知と山祇が争っていたので、当然存在していたと推測される。

黒曜石は神津島から千葉や静岡に運ばれ、翡翠は九州や北海道、さらには朝鮮など、さらに広域にわたって取引されていた。おそらく君子国は、諏訪湖の黒曜石と糸魚川の翡翠を交易するため、大人国の舟を必要としていたのだろう。黒曜石を産出する八ヶ岳は、八国の信仰の対象であった可能性が高い。

建御名方が国譲りで敗れ、諏訪に逃れた理由は、諏訪湖が彼の故郷だったからだろう。諏訪で行われる御柱祭は、木神(鬼神)を祀る起源かもしれない。高度な縄文土器が創られた頃の事だろうか。

敦賀という地名は、「津に来た」川の神のことを意味し、八百万神は八国に百以上の種族がいて、「ついたち」に敦賀の津に寄り集まった神々(万神)を指していると考えられる。大人国の宮は舟を造る伊根の舟の港(フナ門)、隠岐は「神奈門(ミナト・奈岐神の宮の門)」、君子国は「神()(ミキド→ミカド)」なのだろうか。

海から来た人は「神子(ミコ)」、日国から来た人は「ヒコ」、胸形から来た霊は「ムチ」、日から洲、そして胸形を経由した神は「ムスヒ」と呼ばれる。これらの言葉の構造は「膠着語」と呼ばれている。

名詞に「ラ」行の動きをつける動詞で言葉を終わらせる。日国から来た子の「ひるこ」の「こ」のように、名詞に動詞に更に名詞を加えて名詞が膨らむ。於漏知は霊が雄々しく遣ってくる霊のことを意味し、山祇は「ヤ」魔(八国の霊)と津神の婚姻で生まれた神なのだろうか。名前は地名の履歴を表す。他氏族の子は定住する自氏族の子と分けるために、日子などと出身地を付加する。日子や牟遲、産巣日が集まった場所が敦賀や若狭、神話の中心地である。

2024年11月6日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話17 歴史時代

  葛木氏は御真木入日子の時代から歴史として記録され始めたと述べたが、『日本書紀』は紀元前667年から歴史時代が始まった。私はAI『日本書紀』の暦に関する論争を行い、勝利した。『日本書紀』に記述された朔の日干支は正確だが、それを求める計算には16世紀に採用されたグレゴリオ暦の知識が必要である。しかし、『日本書紀』には11世紀の岩崎本という、もっと古い写本が存在する。つまり、後から書き換えられたものではなく、古代に正確な記録が残されていたことを意味する。

AIも、「古代の人々は観察できた範囲で正確に朔の日を記録しており、その結果が現代の天文データとも一致している。これがもっとも矛盾の少ない説明である。」と認めた。

では、なぜ中国では晦や朔が混在していたのに、日本では朔がずっと朔として扱われていたのだろうか。それは日本語から簡単に理解できる。日本語では、晦日は「ミソカ」と呼ぶ。これは30日を意味するが、小の月では29日が晦日だ。このため、日本国は中国の「晦」を「ミソカ」と思い、それを30日目の朔日だと理解した。大の月の晦日は「オオミソカ」と呼ばれている。おそらく、中国の晦は年366日の太陽暦の名残で、太陰暦にした時に30日目が晦で朔と同意語だったのだろう。

倭国は中国の暦を使用していたが、「晦」が「朔」と理解していたため、日本国の29日や30日と1日のズレが生じた。しかし、日本語では朔日を「ツイタチ」と呼ぶ。これは「津に他氏族の神が集まった日」という意味がある。晦日は日本語では「ツゴモリ」と呼ばれ、神様()が津に籠る日を意味していた。そして翌日、神々が津に集まった。日本国は倭国と異なり、朔と晦は全く別物だった。

対馬の月讀が津に籠り、その配下が翌日津に集まった。食国の政大夫である宇摩志麻治や天日方奇日方、彦湯支、出雲醜も、朔日には食国にいたと考えられ、その記録が残されていたのだろう。しかし、葛木氏はそのような記録を持っていなかった。

2024年11月4日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話16 息長氏

  遠津臣の娘である高材比賣の子に息長宿禰が存在し、彼は葛城の高額比賣を妃に迎え、息長帯比賣を生んだ。遠津は、近い津である大津に対する「遠い津」で、草津のことを指すと考えられる。そして、伊勢遺跡がある守山市の隣町の草津の遠津氏の娘の子に豐鋤入日賣が存在したと思われる。

比古布都押之信の世代に、葛城の垂見宿禰の娘である鸇比賣が存在し、子に建豐波豆羅和氣がいる。葛城の宿禰なのだから、輕宮の葛木氏の天皇の娘であり、子が豐国に移住した人物のようだ。

高額比賣は多遲摩毛理の弟である多遲摩比多訶と、清日子の娘である由良度美との娘で、葛木氏は葛城の垂見宿禰からその氏を継承したと考えられる。なぜなら、多遲摩毛理は常世国から非時香菓(高麗橘)を持ち帰ったが、済州島(常世)と萩(多遲摩毛理の出発地)にのみその木が自生する。すなわち、伊久米伊理毘古の宮も萩近辺にあったと考えられる。神功皇后が穴門の山田邑に宮を建てた場所も、萩の隣であり、萩や穴門は豊国に属する。

つまり、伊久米伊理毘古、多遲摩毛理、豐鋤入日賣、息長宿禰は同じ系統の人物であったと考えられる。豐鋤入日賣は伊勢の女王、息長帶比賣は穴門と糟屋の斎王であった。そして、息長帶比賣は栗東市の坂田宮伊勢斎王禊祓所で禊祓を行った女王国の女王であったとも考えられる。『舊事本紀』によると「氣長足姫命是息長地名在近江國坂田郡」とあり、坂田は息長足姫が生まれた地である。

帯中日子も豊国の安芸の王であり、妃である息長帶比賣は品陀和気(襲津彦)の母であった。『紀氏家牒』の時代はすでに神話ではなくなっていたが、人の名前はその履歴書である。

師木に首都があったのに、御真木入日子や伊久米伊理毘古は矛盾しており、また、首都が纏向でも同様である。纏向宮に王が住んでいた場合、渟名城入姫がその王であった可能性が高く、渟名城入姫は大和神社を創建した。しかし、渟名城入姫を祀る渟名城入姫神社は、大和神社から離れた纏向に近い場所に祀られている。箸墓の被葬者の倭迹迹姫は世代が異なる。

2024年11月1日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話15 少名日子建猪心

孝元天皇の子である少名日子建猪心は、『日本書紀』に倭迹迹姫と言い換えられており、彼が倭迹迹姫の婿であったと考えられる。実際のところ、少名日子建猪心は景行天皇の時に記述されるように、比古布都押之信の後代の野洲王の名前である。少名日子建猪心は「少名日子」という名前の通り、吉備小国の王であり、若建吉備津日子の娘である針間之伊那毘能大郎女に婿入りした、吉備の王であったと考えられる。

御真木入日子の宮は318年まで続き、その後、若帯日子の宮が355年まで続いた。伊久米伊理毘古と大帯日子の宮が並行して存在していた可能性が高い。御真木入日子の宮の後に続いていたなら、王の薨去日の記録があるはずで、それを記述しないのは、傍系の王家だったためと考えられる。

少名日子建猪心という分家が開かれたのは、屋主忍男武雄心と呼ばれていた150年頃までに開かれたと思われる。景行3年西暦73年に屋主忍男武雄心は紀伊国、これは木国に祭祀する宮を造って、武内宿祢が生まれたと記述する。73年では日干支が間違いであり、纏向に首都が在り、その隣国は領域と考えられ奇異である。130年ならば、日干支も正しく、景行天皇は128年に穴穂へ追い出されているので、屋主忍男武雄心が木国に宮を建てるのは理に適う。宮を建てるということは、侵略して、山代の内臣の首領になったことを意味し、それが内臣の宿祢()の紀(木国)の武内大臣である。

そして、本家の屋主田心の曾孫が成務天皇の時代に高志国造の称号を授けられたので、少名日子建猪心は屋主田心から分かれた家系だろう。本家である紀氏は仲哀天皇まで仕え、200年頃には葛城国造の庇護を求めて移住した。

少名日子建猪心は若建吉備津日子の娘に婿入りし、その子である小碓が日向襲津彦を殺害し、襲津彦の地位を継承した。建猪心兄弟は、小碓と大碓の可能性がある。紀氏は仲哀天皇まで屋主であり、その名の通り、野洲の王であったが、大和の葛城に逃れた。この時、大臣の地位を武内大臣から丸迩の比布禮能意富美が奪ったと考えられる。

2024年10月30日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話14 春日から葛城

  大毘毘は春日の伊邪河宮の大綜杵の娘の伊迦賀色許賣に婿入りした分王家で、『日本書紀』に記述されない、春日の建國勝戸賣はその後継者、その後、大闇見戸賣、沙本毘賣と継承されたと考えられる。一世代後の妃なのだから、可能性は高い。そして、妹の倭迹迹姫が輕の堺原宮の跡取りなのだから、比古布都押之信が安曇川近辺に住んで輕宮の王位を継承した。

春日臣の祖は孝安天皇彦國押人(天戸目)、その娘の春日千乳早山香媛の娘の婿が蝿伊呂杼、その娘が建國勝戸賣なのだろう。すなわち、春日千乳早山香媛の娘は弟波延、その子が大綜杵で妃は内色許男の娘の伊迦賀色許賣、すると、大綜杵の妹には内色許男の子の大峯大尼が婿になった可能性が高い。

竟富那毘の妹が葛城の高千那毘賣なのだから、父は同じ葛城の垂見宿禰で、母は葛󠄀城尾治置姫、葛󠄀木尉直(󠄀木直)の祖の建箇草(󠄀木宿禰垂見)の娘の鸇比賣の婿が比古布都押之信なのだろう。葛城の垂見、神を「帯す」のは、大倭根古の国玖琉で、官位は王家によって呼び方が異なる。

󠄀木直の祖の諸見足尼(垂見宿禰)の娘が諸見巳姫、夫が建諸隅である。建諸隅の子の倭得玉彦が竟富那毘と同名の亦の名が大稲日なので、倭得玉彦が竟富那毘の娘の意富阿麻比賣(󠄀木髙名姫)を妃にして、その子が物部武諸遇を継承したと考えられる。

大毘毘が婿入りした先は大綜杵の娘の伊迦賀色許賣で、子が御眞津比賣と御眞木入日子、御眞津比賣の夫が御眞木入日子である。三国山の山麓の琵琶湖側の高島市のマキノ町、三()のマキ()に大荒比古神社がある。大荒田の娘は玉姫で婿が建稲種、子が270年からの応神朝大臣の尾綱根なので、琵琶湖西岸に首都があった。そして、318年に尾治弟彦が難波で朝廷を開き、伴って荒田彦が葛城の高額比賣の婿となって大和の葛城に遷ったのだろう。荒田彦の娘が葛比売、その子が襲津彦、葛城野伊呂賣へと継承され、伊奢能麻和迦が生まれた。葛比売が帯中日子の妃なのだろう。

2024年10月28日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話13 葛木氏と木国

  比古布都押之信の妃である葛城の高千那毘賣が登場した後、362年に薨じた息長帶比賣の母である高額比賣までの間、葛木氏の記述が欠落している。『紀氏家牒』には、紀武内宿祢が紀伊国造である莵道彦の娘の子供として紀氏を名乗ったと記録されている。

紀氏は「歴事六代君」と開化、崇神、垂仁、景行、政務、仲哀の6代の天皇に200年頃まで仕えた。紀氏はその後、「凡春秋二百八十余歳家大倭国葛城県」とあるように、春秋280回、つまり約140年にわたって大倭葛城縣に340年頃まで居住したと考えられる。彼の住んでいた大倭国は、『紀氏家牒』が清寧天皇以降に記述されたのだから大倭は大和、その大和の葛城地方に140年間宮を持っていたようだ。つまり、紀氏は淡海(近江)にある紀里から木国を経て大和の葛城に移り、後に平群県の紀里に居住し、さらに紀伊国に移った。紀里という名を持ち歩いた。

葛木では、帯中日子の子の394年に崩じた襲津彦が、葛城国造荒田彦の娘・葛比売の子として生まれた。すなわち、品陀真若が応神天皇で、襲津彦が品陀和気と思われるので、362年に薨去した息長帯比賣は葛比売であり、その母が葛城の高額比賣だったと考えられる。襲津彦の妃は、大伴氏の孫と思われ、『日本書紀』で日向を名乗る泉長媛の可能性が高い。子が大葉枝、小葉枝と安寧天皇波延の名を引き継いでいるので、姉妹に婿がいるのだろう。それが、襲津彦の娘の石之日賣と髪長比賣、孫は石之日賣の子の伊耶本和気天皇である。幡日之若郎女は長男が日向諸縣君に婿入りしたと考えられる。

このように、比古布都押之信は春日で生まれ、彼の子孫は後に山代の内臣や屋主(野洲王)と少日子(小国王)という人物が生まれたのだろう。比古布都押之信は葛木の輕に住み、妃である内色許賣が「しこぶちさん」を祀る安曇川南の葛川近辺にいたと考えられる、葛城の高千那毘賣に婿入りしたのだろう。高千那毘賣の兄は木国造の婿で、尾張連の祖なので、この姻戚関係が履中朝まで続いた。

2024年10月25日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話12 葛城天皇の系図

孝霊天皇の子の孝元天皇の妃は内色許賣で、伊迦賀色許賣は皇后の兄の内色許男の娘として記されている。開化天皇の妃である伊迦賀色許賣が大綜杵の子であることから、内色許男の娘である1代目の伊迦賀色許賣は大綜杵の妃だったことが解る。孝霊天皇から複数の妃が記述されているが、急に複数の妃を記述する理由が無い。

王朝は、代々、皇后の娘と皇后の兄弟の子との婚姻で継承されたのだから、複数の妃がいたとしても、記述する妃は一人である。他の妃の子は王朝交代に関係が無いので、記録として残す必要がない。複数の妃は孝元天皇の妃に、皇后の内色許賣の兄弟の娘を記述したように、皇后の親族を記述したと思われる。その王朝は、皇后の王朝なのだから。

2代目伊迦賀色許賣の子、比古布都押之信は尾張の連の祖の竟富那毘の妹である葛城の高千那毘賣を妃とし、山代の内臣の祖を生んだ。安曇川近辺の葛城の毘賣ということから、「しこぶちさん」を祀る内色許賣の娘である可能性が高い。『日本書紀』には記述されていないが、注釈では内色許賣の子の少名日子建猪心という天皇の母弟とされる人物が登場する。これは、「母弟武石彦」と同じように、大毘毘の義母の伊迦賀色許賣の系統の弟だということを意味している。

大毘毘の妃である2代目伊迦賀色許賣は大綜杵の娘であり、その弟が少名日子建猪心で、『日本書紀』でいう倭迹迹姫の婿と考えられる比古布都押之信に該当する。すなわち、少名日子建猪心と書き換えられた倭迹迹姫が葛城の高千那毘賣であると推測される。

『紀氏家牒』や『日本書紀』には、景行天皇の時代に孝安天皇の曽孫の屋主忍男武雄心が比古布都押之信の子の武内宿禰の父として記されている。つまり、高千那毘賣の子、味師内宿禰が少名日子建猪心の名を引き継いで吉備の王になり、後裔は成務天皇の時代に野洲の王である屋主武雄心(田心)となった。彼の子の建内宿禰が大臣になり、屋主武雄心の孫である市入が高志国造になった。

2024年10月23日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話11 孝霊天皇

  孝霊天皇の妃は細比賣であり、彼らの子供が孝元天皇である。しかし、孝霊天皇には他にも倭國香媛(別名:絚某姉)と絚の某妹という妃がいたとされ、彼女らは縣主波延の末裔である可能性が高い。ただし、「イロネ」・「イロド」は姉の夫、妹の夫の意味で、天皇の義兄弟である。

安寧天皇の子である師木津日子には子に某姉と某妹をもつ和知都美と別の子供もおり、その子孫が須知、那婆理、三野の王家を築いた。そして三野国造の祖は八瓜(神大根)、三野国造は弟彦で、これらが師木津日子は尾張氏の祖である。ただし、三野後國造は出雲大臣の孫の臣賀夫良で、もう一人の師木津日子の子が懿徳天皇と姻戚だった。

孝霊天皇の子である孝元天皇の妃は内色許賣で、彼は首都を懿徳天皇と同じ輕に遷した。内色許賣は、出雲大臣と同じ地域の女性であり、それに対応して、出雲大臣の孫と和知都美の子が婚姻し、波延の土地を引き継いだ可能性が高いと考えられる。王家は相互に婚姻しあって存続を図る。

孝霊天皇の妃である細比賣の姉妹または従姉妹が、絚某姉と絚某弟だったと考えられる。また、『日本書紀』に記載のない孝霊天皇の兄弟、大吉備諸進は細比賣の兄であり、孝安天皇の子・建斗禾だと推測される。後に絚某姉と絚某弟の子供たちが「吉備臣」と名乗ったのも偶然ではないだろう。

 孝安天皇の娘である細比賣は尾張氏のむすめなのだから、義兄妹の大吉備諸進は妙斗米であると考えられる。建箇草は「多治比連津守若倭部連葛木尉直」の祖先であり、これらの姓は葛木氏の末裔にあたる。孝霊天皇の日子賦斗迩は天忍男の家系であり、建箇草と合致する。また、絚某姉は建斗禾の妃である中名草姫と考えられ、また、六人部連の祖・妙斗米が絚某弟に婿入りした。妙斗米は大綜杵の孫であり、六人部連の祖である安毛建美とも繋がっている。このことから、賦斗迩、建斗禾、妙斗米はいずれも十市縣の王名によく合う。

 

2024年10月21日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話10 葛木氏の天皇

  孝安天皇、彦國押人は、姪の大倭帯日子國押人の娘である押媛を妃に迎え、孝霊天皇の皇后となる細比賣を産んだ。また、大倭帯日子國押人は孝安天皇の娘、忍鹿比賣を妃にし、孝霊天皇、日子賦斗迩を産んだ。勿論、83年も王朝が続いているので、互いの婚姻で氏族を存続させて、彦國押人も大倭帯日子國押人も4代程度、押媛も忍鹿比賣も両家の娘の従妹である。前項の氏族間の婚姻制度そのもので、葛木日子と師木日子の主導権争いを伴う氏族の維持である。

『日本書紀』では、孝安天皇の妃は磯城縣主の葉江の娘や十市縣主五十坂彦の娘として記されている。また、『古事記』では孝霊天皇の妃も十市縣主の祖、大目の娘であるとされている。このような経緯で、葛木氏の大倭帯日子は、天皇縣主波延朝廷の娘である忍鹿比賣を妃にし、その息子の日子賦斗迩が葛木氏の孝霊天皇として即位したと考えられる。

すなわち、十市縣主になっていない、天皇縣主大目の跡継ぎの長女は皇位を奪われ、十市縣主に賜姓された。後継者が阿禮比賣だったのだろう。また、首都が葛木なのだから、葛木氏が優位になるのは当然の帰結である。

その十市縣主の祖の縣主大目の娘の細比賣を孝霊天皇は妃に迎えた。天皇が細比賣に婿入りしたのに前天皇が十市縣主になったのは、春日千千速眞若比賣の住む黒田に遷都したからだろう。長浜には春日神社があり、木之元に黒田があり、黒田神社がある。黒田廬戸宮によく合致する。

後の十市縣主の皇子は建斗禾と妙斗米と考えられ、彼らの父である天戸目の妃は葛木避姫である。孝安天皇の首都、婿入り先が葛木の室の秋津島、押媛が葛木彦の子の日本足彦國押人の子であるため符合する。すなわち、天戸目が孝安天皇であったことが解る。この後、また師木が首都になるということは、師木日子の末裔が妃になって、皇位を奪取することを意味する。それが意富阿麻比賣で、師木宮の皇后である。

2024年10月18日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話9 氏族間の婚姻制度

孝昭天皇は、御眞津日子の子と葛木彦の子を婿として迎えたと述べた。『後漢書』には、「國多女子大人皆有四五妻」とあり、大人(日本人が言う主)の男性が多人数の妻を持っていたことが記されている。「餘或兩或三」とその周りの臣下は2・3人。しかし、通常は男女比では男子が少し多いはずだが、『後漢書』の日本では男子が少ないと記述する。これは、多くの男子が他の氏族に婿入りして、外に出、下層民は嫁を得られないためだと考えられる。

『後漢書』には、「歴年無主」とあり、王は主、また、「卑彌呼年長不嫁事鬼()神道」、卑弥呼は嫁がず鬼国(木祖を祀る国)の国神を祀る神子(禰宜)だったことが記されている。古代の皇后は、子を産む神と見なされ、氏族を維持する重要な役割を果たしていた。氏族を存続させるためには、主(縣主)の后()の長男・長女と、后の兄弟の使主()の長男長女が婚姻関係を結ぶ。后の娘は使主の長男を迎え、その後も従兄妹の間で婚姻が続いたと考えられる。同じ宮、同じ集落内での婚姻である。

こうして、氏族の長男は、次世代の氏族を維持するための婚姻相手となり、次男以降の男子は他の氏族に婿入りして新たな近縁氏族を形成していく。しかし、全ての男子がこのように婚姻できるわけではなく、多くの男子は氏族を離れ、結果として男子の数が少なくなったと考えられる。

葛木氏と波延の家系は、長い間、婚姻関係を保ち続けた。しかし、同族間で婚姻が続けば遺伝的な問題が生じ、男子が育ちにくくなる。そこで、婿入りを通じて他の氏族と次女との婚姻関係を結ぶことで、氏族の存続を図る。それが、依姫のような波延某弟による孝安王朝の相続である。

孝昭天皇の次女に孝安天皇が婿入りし、これによって葛木の掖上から同じ葛木の秋津嶋宮に首都が遷された。同様に、孝元天皇も懿徳天皇と同じ氏族の軽宮に婿入りし、氏族を存続させた。これにより、内色許賣が懿徳天皇と同じ氏族に属していたことが示されている。これは、男系の王朝交代である。

2024年10月16日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話8 葛木氏と尾張連

  御眞津日子訶惠志泥は、奧津余曾の妹である余曾多本毘賣を妃に迎え、大倭帶日子國押人を生んだとされている。和知都美は奧津余曾の妹である世襲足媛を妃に迎え、蝿伊呂泥と蝿伊呂杼を生んだが、『舊事本紀』では、彦國押人と日本足彦國杵()人を生んだとされている。孝昭天皇は御井宮から葛木の掖上に婿入りし、孝安天皇も首都は葛木で、奧津余曾は葛木彦になっている。『古事記』によれば、孝昭天皇の子は、波延の姉の夫と妹の夫なので、二人とも婿であったと考えられる。

御眞津日子の子である日本足彦國杵()人が蝿伊呂泥の婿となり、奧津余曾の子である彦國押人が蝿伊呂杼の婿となった可能性が高い。古代の王位継承は長女が相続し、同じ氏族間の王朝交代は長女で無い姫の依姫が継承する。

比古布都押之信の義理の兄である竟富那毘は、尾張連の祖であり、その父は建斗禾で、建斗禾の父は天戸目、天戸目の父は忍人で、忍男の子の尾張の連の祖の奧津余曾とは別系統である。尾張の連の祖の奧津余曾の子が忍人の婿の天戸目(彦國押人)であれば整合性が取れる。また、比古布都押之信の妃の竟富那毘の妹が葛木之高千那毘賣で、比古布都押之信が葛木の氏を引き継いで、竟富那毘は尾張連の祖を引き継いでいる。

天忍人の子供は天戸目と大蝮壬生連の祖である2代目の天忍男であり、奧津余曾の父の名の忍男を襲名しているのは婿になったためと考えられる。奧津余曾の()弟である建額赤が奧津余曾の妹の婿の御眞津日子である。建額赤の妃が葛󠄀城尾治置姫であったのだから、兄の奧津余曾も葛木氏なので葛木彦を名乗った。尾張氏の祖でもあったのは、葛󠄀城尾治置姫(余曾多本毘賣)が妹でないと奧津余曾が尾張出身とは言えなくなる。額赤の子供である建箇草は、若倭部連や葛木尉直の祖であり、若倭根子の末裔が若倭部で葛木氏を引き継いでいる。

2代目忍男が祖の大蝮壬生連の壬生部は伊邪本和氣の御名代であり、葛城部も同時に定められた。蝮部も水齒別のために作られた御名代であり、葛木氏の部民であったと考えられ、どちらも天忍男の後裔である。

2024年10月14日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話7 多藝志比古

大倭日子耕支の妃は、師木縣主の祖の賦登麻和訶比賣で、彼女は懿徳皇后の天豐津媛と同一人物なのだろうか。『古事記』は、大日本根子彦を「大倭日子」、天豊津を「賦登麻和訶」と記述している。大日本根子彦は天皇の姓、大倭日子は大倭王の意味だ。

『古事記』は多藝志比古が賦登麻和訶の子にしているが、『日本書紀』は「觀松彦香殖稻天皇一云天皇母弟武石彦奇友背命」と多藝志比古は天豐津媛の弟と記述する。『舊事本紀』は懿徳天皇の弟に記述しているが、懿徳天皇も婿だからと考えられる。『古事記』は沼河耳が波延と同世代なのに、綏靖天皇と同世代にしたため、同じように一世代ズレたからだろう。師木縣主の祖である賦登麻和訶比賣で、かつ、師木縣主の祖は河俣毘賣でもある。すなわち、賦登麻和訶比賣は河俣毘賣の娘で、息石耳が沼河耳である。息石耳の娘が懿徳皇后の天豊津媛なので賦登麻和訶比賣は同世代で整合する。

また、天豐津媛と姉弟(?義姉弟)の多藝志比古は懿徳天皇の義理の弟にあたり、共に息石耳の子供だが、『古事記』には記述がない。同様に『古事記』には記されていない葛木氏の剣根の娘である賀奈良知姫が存在する。賀奈良知姫は、琵琶湖の沖ノ島に住むと思われる葛木彦奧津余曾の母であり、息石耳の子孫である可能性が高い。

奧津余曾は孝昭天皇の時代の人物で、懿徳天皇の世代は父の忍男が存在していた。奧津余曾の妹が御眞津日子の妃となり、奧津余曾が多藝志比古を襲名したのなら『古事記』と義兄弟で整合する。すなわち、初代の多藝志比古が忍男である可能性が高い。忍男は當藝志美美の妹か従妹の阿俾良依姫の子なので、名前の継承からも、一世代のズレがあるがこれも襲名したのだろう。

すなわち、劔根・息石耳の婿の忍男が建甕槌と共に義兄の懿徳天皇から皇位を奪い、孝昭天皇を即位させた。すなわち、天豊津媛の妹の師木縣主の祖の賦登麻和訶比賣が賀奈良知姫、多藝志比古忍男が師木縣主の太眞稚彦、娘の世襲足媛が飯日媛と考えられる。

2024年10月11日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話6 神沼河耳と皇位継承

  神沼河耳は、綏靖天皇の妃である多多良伊須氣余理比賣の義理の弟、もしくは子供だが、皇位は義理の兄であり、名前に国名が付かない縣主波延が即位した。神沼河耳の子である師木津日子玉手見は、安寧天皇波延の娘である阿久斗比賣を妃に迎えた。阿久斗比賣は師木津日子の姉だが、師木津日子は国名が付き、天皇の名前ではないため、天豐津媛の夫が懿徳天皇になったことがわかる。懿徳天皇の后である天豐津媛は息石耳の娘とされているため、息石耳は師木津日子の一世代前の神沼河耳と同世代の人物のようだ。

『日本書紀』では、安寧天皇の子として最初に大倭日子鋤友ではなく息石耳が記載されている。しかし、息石耳は懿徳皇后の天豐津媛の父であり、安寧天皇波延と同世代に属する。『日本書紀』の、大倭日子鋤友の子である御眞津日子の項には、「天皇母弟武石彦奇友背」と記されている。懿徳天皇の子供には多藝志比古と御眞津日子がいるが、多藝志比古は懿徳天皇の義理の兄弟である。つまり、多藝志比古と大倭日子鋤友、そして師木津日子玉手見は同世代であったということだ。

大倭日子鋤友の妃は、師木縣主の祖である賦登麻和訶比賣であり、彼女は師木縣主の祖河俣毘賣の娘にあたる。したがって、懿徳天皇は玉手見の義兄弟、神沼河耳は『日本書紀』に登場する磯城縣主葉江の義理の弟である猪手と同一人物であると考えられる。また、大倭日子鋤友は『舊事本紀』に「大日本根子彦耕支」と記されており、これは葛木氏の天皇名であり、懿徳天皇に当てはまる人物だ。

多藝志比古は、名前の継承から考えると、當藝志美美かその姉妹の後裔である可能性が高い。多藝志比古は『舊事本紀』によれば安寧天皇の后・渟中底姫の子供とされており、息石耳は記述されていない。『日本書紀』には懿徳皇后が神沼河耳と考えられる猪手の娘とされることから、神沼河耳が息石耳の可能性が高く、玉手見が名を継承し、阿久斗比賣の婿として、安寧天皇の子に挿入された可能性が高い。常根津日子伊呂泥の伊呂泥は姉の夫である。

2024年10月9日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話5 綏靖天皇の実像

  『舊事本紀』・『日本書紀』によれば、綏靖天皇は神沼河耳とされているが、『古事記』では安寧世代で一世代ずれているため、當藝志美美が本当の綏靖天皇だと考えられる。そのため、『古事記』では多多良伊須須岐比賣と多多良伊須氣余理比賣が同一人物として記載されている。しかし、唯の比賣と余理比賣は意味合いが異なり、主家の女王と分家の王妃にあたり、唯の比賣は跡継ぎの長女も唯の比賣である。

『日本書紀』では日子八井についての記述がなく、また、伊須氣余理比賣は彼の母ではなく、兄妹として『舊事本紀』に記載されている。『古事記』には「當藝志美々命娶其嫡后伊須氣余理比賣」とあり、『日本書紀』には「手研耳命行年已長久歴朝機」と記載されていることから、當藝志美美が綏靖天皇であり、彼の皇后が伊須氣余理比賣であることは明らかだ。綏靖皇后の夫は綏靖天皇であるのは当然である。

神沼河耳の妃の河俣毘賣は師木縣主の祖であり、義兄は沼河耳の乱によって、縣主波延になった人物と記述されている。よって、河俣毘賣と皇女の伊須氣余理比賣とは別の人物である。

本来、神武天皇の長男である日子八井が天皇の後継者であるべきだったが、彼は何らかの理由で後継者から脱落した。伊須氣余理比賣が嫡后だったのだから、日子八井初代綏靖天皇の皇后の伊須氣余理比賣を當藝志美美が奪ったのだろう。そのため、當藝志美美が神武天皇の妹阿比良比賣の子として皇位を継承し、「伊須氣余理比賣」綏靖皇后を妃に迎えた。當藝志美美は神沼河耳の助けを借りて皇位を奪取した可能性が高く、神沼河耳の後ろ盾には師木縣主になる一族がいたと考えられる。

天皇の名前には国名が記されることはなく、神武天皇の皇后は媛蹈韛五十鈴命、綏靖天皇の妃は日子八井命の妹(従妹)、比賣多多良伊須氣余理比賣である。伊須氣余理比賣の称号も比賣多多良で、天皇すなわち比賣帯()を意味するのだろう。

2024年10月7日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 葛木氏の神話5 尾張氏と阿多氏

  『舊事本紀』によれば、神渟名河耳と日子八井命は媛蹈韛五十鈴命の子供であるが、神八井耳は含まれていない。すなわち、神八井耳は婿、神八井耳は意富臣の祖であり、尾張氏の祖である。尾張氏の祖先である火明の孫にあたる天村雲の妃が阿俾良依姫であり、阿俾良依姫は阿多君の妹である阿比良比賣の娘と考えられる。 神渟名河耳には一代のズレがあり、媛蹈韛五十鈴命の娘の伊須氣余理比賣の夫が當藝志美美である。その當藝志美美の妹が阿俾良依姫であり、天村雲はその婿である可能性が高い。神阿多都比賣を阿多君の祖とせず、火照を祖としているのは、火明が神阿多都比賣の子ではないためと考えられる。火照は阿多氏を継承しているが、火明は阿多氏ではなく、道姫を妃とした道氏である。

天村雲の母である穗屋姫は、異母妹ではなく異妹であるため、道姫の妹の娘であると考えられる。一世代が数十年でそれを纏めた続き柄なので、兄弟は従弟にあたると考えられる。世代的に道根の妹である道姫は高御産巣日の娘であり、穗屋姫は高御産巣日の孫である。彼女は大物主の妃である三穂津姫と同じ地域の姫と考えられ、大山津見の後裔である阿多君との関係は薄い。火明は『古事記』では兄弟として記述されておらず、迩迩藝と兄弟の『舊事本紀』と一致している。

神阿多都比賣は大山津見の娘で、火明の妃は高御産巣日の娘である道姫であり、接点がないため、火照の妃が高御産巣日の娘であると考えられる。分家の甥である不合命の妃が母妹(従妹)である玉依姫であるため、本家は玉姫、道姫の異母姉妹であり、忌部首の祖である兄の天太玉、名前から大国王(?)と考えられる。国名が付かない玉依姫は大国王朝の姫である可能性が高い。三島溝咋(高御産巣日)の妃が活玉姫と考えられ、子が活玉依姫と2代目高御産巣日、2代目高御産巣日の妃が玉姫すなわち大国王、その娘が玉依姫と美穂津姫に想定できる。

人名と続き柄からこのような想定が出来る。

2024年10月4日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話4 分王朝の依姫たち

 『日本書紀』に記されている綏靖天皇の神沼河耳の親は、火火出見である。火火出見という名は2人存在しており、1人は神吾田津姫の子であり、もう1人は玉依姫の子である。神倭(神屋)王の事代主の妻は玉櫛媛(活玉依姫)であり、綏靖天皇の皇后は伊須氣余理比賣である。このように、依姫は王朝の後継者であり、別の王家の女王となったことを意味する。

火照は番能迩迩藝の長男であり、後継者と考えられ、阿多君の祖である。火火出見の子は、伊吹から流れる川の江の王である不合(吾江津)であり、その王妃は王家の後継者の名を持つ玉依姫である。伊吹山がある米原には天野川河口の宇賀野があり、鵜草の()葺にピタリだ。

『日本書紀』には、火闌降が「吾田君小橋等之本祖」と記されており、『古事記』では、火照が「隼人阿多君祖」とある。これらは、「火」を「ホ」と理解する、九州の速日別国の人物であり、加須屋の海祇の子孫であることを示している。「君」という称号は岐神を意味し、国名が付かない岐神は君子国(三国)の王の天皇である。

『古事記』では、長男が火照、『舊事本紀』では火明が長男、そして『日本書紀』と『舊事本紀』では火明が尾張氏の祖とされている。これにより、火照と火明が義兄弟であることが示唆されている。

また、『舊事本紀』では、火明の孫である天村雲の妃が阿俾良依姫と記されており、吾田君小橋の妹の姻戚であることが分かる。神八井耳は意富臣の祖であるが、大萑朝大臣の意乎巳連は尾張氏であるため、神八井耳と當藝志美美も義兄弟の関係にあると考えられる。それは、阿俾良依姫が阿比良比賣の娘であり、當藝志美美の妹であったと考えられる。すなわち、天村雲は神八井耳と同一人物と考えられる。亦の名の比賣多多良伊須氣余理比賣は天皇阿多君と皇后五十鈴命の娘であり、これらの関係性が当然の帰結である。火明は天皇阿多君の本家阿俾良姫の子の葛木氏と義兄弟の政権中枢の氏族の尾張氏だった。

2024年10月2日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話3 當藝志美美とその家系の謎

  若御毛沼の子の當藝志美美の妃は前王の妃である富登多多良伊須須岐比賣(伊須氣余理比賣)で、彼女は母の三穂津姫がいた穂の国の港、穂門の井州の集落の姫と考えられる。敦賀には井ノ口河があり、事代主の妃の玉櫛媛の名をもつ櫛川が河口にある。

磐余彦の「磐余」は、400年に伊耶本和気が天皇になった場所の宮の名だ。當藝志美美は白梼原に住み、敦賀には樫曲と言う地域がある。天皇は神倭()に住んでいて、その主である天皇は、国名のない女王、つまり比賣多多良伊須氣余理比賣である。「比賣」と「余理比賣」では意味が大きく異なり、「蹈鞴」は帯の意味なのだろう。媛蹈鞴五十鈴命は初代天皇で、その社(八国の代)の隣に建てられた「依り代」である新朝廷の天皇と考えられる。

また、天皇の宮殿は「神倭(みや)」と呼ばれ、国名を必要とせず、縣主も同様で縣主波延は安寧天皇である。比賣多多良伊須氣余理比賣は、綏靖天皇の皇后として記述されており、一代のズレが見られる。

さらに、『舊事本紀』には、事代主と活玉依姫(玉櫛媛)の子が「一男一女兒」を生んだと記されて、天日方奇日方と媛蹈鞴五十鈴命である。媛蹈鞴五十鈴命は「皇后誕生二兒」とあるように二人の子供を生んで、神渟名河耳と彦八井耳が生まれた。

しかし、次妹の五十鈴依姫についても記述があり、数が合わない。これは、神渟名河耳が彦八井耳の義兄弟であることを示しており、神渟名河耳は一代のズレがあるため、當藝志美美が義兄弟であることを意味している。河俣毘賣は、安寧天皇波延の妹であったとされており、神渟名河耳は安寧天皇の世代に属した。富登多多良伊須須岐比賣が伊須氣余理比賣と別人で、彦八井耳は富登多多良伊須須岐比賣の子であるので、彦八井耳も、阿比良比賣の子である當藝志美美も、五十鈴依姫の夫であり、共に綏靖天皇である可能性が高い。

三島溝咋の孫である媛蹈鞴五十鈴命も、富登多多良伊須須岐比賣も、事代主と大物主の王朝の妃になっている。したがって、三島溝咋の子も両王朝と姻戚関係にあったと考えられる。

大物主の王朝は、阿多小椅君の妹の婿が阿多氏を継承し、君は君子国(三国)の姓であり、三国の王であった。この襲名した阿多氏が大物主を継承し、阿田賀田須につながった。一方で、皇后の夫も阿多君であった可能性が高く、天日方奇日方の別名である阿田都久志尼は、阿多君の禰宜であった可能性が高い。

2024年9月30日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話2 大物主

  『古事記』は、大臣の説話集であり、御真木入日子から時期が特定できる歴史が始まる。御真木入日子の時代より前、若日子(若狭彦)の義兄弟である阿遅鍬高彦根の時代より前に、出雲で大乱が起きた。この大乱は、天菩比の侵入から始まり、その後、若日子の子の大国主が大山祇大神の勢力を衰退させた。胸形の神の牟遲、港に天降った津見から主の政権となった。

その結果、君子国の勢力が強まり、神屋楯比賣の子である事代主は、三島溝咋の娘、玉櫛媛(活玉依姫)を妃に迎え、神倭朝廷を開いた。神は月讀、政務は主だったが、大国主(大物主)と事代主の勢力が並び立つこととなった。

神倭朝廷の最高実力者の政大夫である天日方奇日方と宇摩志麻治は、神倭国を統治し、大国主は大物主と呼ばれた。天日方奇日方の後裔である建甕槌は、大物主の勢力と天菩比の後裔の勢力を伯耆以西に追放し、大国主を亀岡の出雲神社に祀った。

『舊事本紀』によれば、大物主の妃は高御産巣日の娘である三穂津姫である。大田田祢古の父の大物主は建飯賀田須だが、建飯賀田須の父大御氣主の妃は大物主の血筋ではない。男系は事代主の血筋なので、建飯賀田須の母である大倭國民磯姫が大物主の血筋、すなわち、三穂津姫の子の血筋と考えられる。

高浜の神、高御産巣日の娘である三穂津姫は、三国の岬の港の姫であり、三方の姫と考えられる。大倭國民磯姫は、世代的にも名前からも大倭帯日子の娘であり、孝安天皇の次の時代である孝霊天皇、葛木朝廷の姫と考えられ、大御氣主が婿入りして大吉備諸進になったのなら、大物主が吉備で生まれ、『播磨風土記』によると、大和三山の争いがおさまって、揖保郡上岡里から阿菩大神は出雲に行った。「カムオカ」は大国主を祀った出雲神社のある亀岡と無関係なのだろうか。神は地名を持って移動する。

2024年9月27日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話1 御井宮の住人

  『古事記』は、葛木氏の意祁王が記述した大臣の史書である。葛木氏の祖である高木神が最初に記述されるのは、若日子の殺害時のことだ。

『古事記』によれば、神武天皇は若御毛沼であり、曾都毘古の東征で伊奢沙和氣大神と御食津大神の名を交換し、伊耶本和気が皇位に就いた。これにより、葛木氏の王祖である御毛(御食)沼から、王祖の立場を継承したことが示唆された。気比は元々日吉神社の場所だった。

葛木の王である葛木彦に賜姓されたのは、孝昭天皇皇后の兄の奧津余曾の孝昭朝大臣だ。また、『古事記』には波延の孫として御井宮の王である和知都美が登場する。そして、『古事記』の波延は国名の付かない縣主すなわち天皇である。師木は少なくとも崇神朝から垂仁朝まで、師木が首都で、首都の王は天皇である。師木縣主になれるのは、景行朝の纏向や政務朝の穴穂に首都が遷って以降である。また、師木縣主の祖は波延ではなく、妹や弟の娘である。

和知都美の娘は蝿伊呂泥と蝿伊呂杼、すなわち、和知都美も波延を襲名した天皇である。つまり、葛木彦は天皇が婿入りした御井宮の住人であり、その御井宮の御井神は大穴牟遲と八上比賣の子で、この時大穴牟遲は八千矛神と言われた。

八千矛は沼河比賣を妃として建御名方を生んだ。建御名方は事代主と共に食国を統治していたとされている。食国の大神は月讀であり、食国の大臣を政大夫と呼び、その政大夫には天日方奇日方と宇摩志麻治、彦湯支、出雲醜がいた。そして、出雲醜大臣は食国の官位でなくなったため、祀るべき大神は食国の月讀ではなくなり、大国で祀られていた多賀の伊邪那岐の娘である天照が大神となった。出雲醜は食国配下の政大夫から、新しい王朝の大臣になって、政権交代が起こった。それを継承したのが葛木彦である。

2024年9月25日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神武東征4 『古事記』と『日本書紀』の暦

  『古事記』には、伊久米伊理毘古や大帯日子や穴穂のように死亡日が不明な神話的な人物と、品陀和気のように歴史的な記録を持つ人物が混在している。帯中日子の崩は息長帯日売の記事に記述されどちらともいえない。このため、おそらく352年十月丁巳朔辛酉(『日本書紀』では前667年)、神武東征が起こり、伊奢沙和氣大神と御食津大神、現代の氣比大神の名前が交換した。御毛沼が追放され、現代の気比で仲国王の太子である豊御毛沼が王位に就いたのだろう。豊御毛沼(品陀和気)が伊奢沙和氣大神であり、その孫である若御毛沼(伊耶本和気)が磐余若櫻宮朝廷を奪ったと考えられる。

『古事記』の日付において、記述場所や品陀和気が32年後の崩から考えて帯中日子ではなく息長帯日売の崩御日と思われる、壬戌年六月十一日である。すると、『日本書紀』どおりなら242年にあたり、神功皇后の崩御は己丑269年、仲哀天皇崩御でさえも200年の庚辰年で、どちらも合致しない。干支は60年周期で繰り返されるため、記録としての有効性を保つには60年以内の間隔でないと意味がない。したがって、推古天皇の崩御が628年戊子の年に起こったのなら、それを遡ることで特定することが可能だ。『古事記』の日付は年月日で記されているが、『日本書紀』の日付は朔の日干支で表されている。つまり、年月日を用いる『古事記』は、日干支を記録しなかった政権下で編纂されたものだ。それに対して、日干支を用いる『舊事本紀』の大連の政権は朔を朔日(1日)の日干支で記録していた。

もちろん、『古事記』の年月日の記述は『隋書』からの影響が考えられるが、それに代わる記録を持っていたと考えられ、墓誌の記録が存在していた可能性がある。日本の羲和は、1年を366日と定めたため、夏至・冬至・春分・秋分からの日数が記録された可能性が高い。『紀氏家牒』には「春秋二百八十余歳」と夏至・冬至で1年を分けて、何回の春秋があったかを記録している。

中国では、頻繁に改朔が行われ、朔が朔日であったり、晦日(最終日)であったりするなど、都合によって月や年が変わることもあった。中国に臣従していた九州の記録も、それに合わせるために変換が必要となった。『日本書紀』を編纂した大伴氏も、中国の朔・晦・元号等の古い記録を保有していたと考えられる。その記録を天日方奇日方の朝廷の暦に合わせたため、歪みが生じた。

2024年9月23日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神武東征3 神武東征と暦の謎

  神武東征は、記録を持つ歴史的な出来事として語られている。『日本書紀』には、最初の日付が「其年冬十月丁巳朔辛酉」「是年也太歳甲寅」とあり、紀元前667年と記述されている。しかし、丁巳朔の実際の日干支は閏11月朔日の日干支であり、冬至が11月にあるため、10月はありえない。これは、閏11月朔日を11月朔日、さらに10月晦日と考えた結果だと考えられる。つまり、この日付の設定は、朔(新月)を晦日と理解する王朝によって記述された可能性が高い。

暦の記録を知らない者が、この日干支を誤って挿入したとは考えにくく、むしろ、九州の王朝では晦日を朔とする暦を使用していたことが推測される。例えば、「三月丁未朔戊申日有蝕盡之」と推古天皇の時代に九州で発生した日蝕は丁未が朔日なのに戊申(2日)と記録されているのは、この暦の理解に基づいているからで、九州の王家の朔は30日目の晦、朔日は次の日、この時2月は29日まで、従って、3月1日は晦日、朔は2日だった。九州の王家は中国の影響で、日干支ではなく日にちを使っていた。

東征は、歴史的出来事として、352年の10月に起こった出来事が挿入された可能性も考えられる。この年には、近江山君が雌鳥皇女から皇位の璽を奪取し、政権交代があった。この時、曾都毘古が13歳で太子になっていたならば、394年に50歳代で薨去したと考えれば年齢的には理に適う。『古事記』には、御真木入日子が戊寅年12月、若帯日子が乙卯年3月15日に崩じたことが記されている。

しかし、息長帯日売の在位は69年間であり、宮は百年、5代程度続き、さらに、彼女の在位期間中に2度の壬戌年6月11日があるため、日付の特定ができない。『日本書紀』によれば、壬戌年は神功皇后の摂政42年目にあたるがそれ以降も生存しており、『日本書紀』とは異なる息長帯日売の姿が描かれている。同様に、仁徳天皇も在位87年間とされ、その期間に2回の年干支が存在し、また、死亡日が記されていない王も存在する。

干支で死亡日を特定するには、在位期間が60年以内であることが必要だ。『日本書紀』と同じ表記名でも、『古事記』の王は異なる王で、『日本書紀』は『古事記』の王の名を使用していることが解る。

2024年9月20日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神武東征2 日向の神話

  倭国が呼んだ虚空津の対馬に対して、近江大津の出身の神子が穗穗手見と考えられる。穗穗手見は曾都毘古の妃の祖神の忍日の子と考えられ、豊国女王豊玉毘賣が妃、そして、玉依毘賣と記述されているが、実際は豊玉依毘賣が曾都毘古の妃の祖と考えられる。自分の国名は省略され、玉依は王の依り代にいる後継者であり、彼女の子孫が2代目曾都毘古の帯中日子の母なのだろう。忍日は紀元前480年頃に伊都の高千穂宮を開き、伍佰捌拾歳後の100年頃に高千穂宮は滅びた。

御真木入日子の宮は『古事記』の壹佰陸拾捌歳(168年)の間、318年まで続いた。伊久米伊理毘古は壹佰伍拾參歳(153年)、大帯日子は壹佰參拾漆歳(137年)、並行して続いた宮の系図である。

屋主忍武雄心が318年戊寅年12月に崩じた御真木入日子と考えられ、伊久米伊理毘古や大帯日子に崩御年の記述がないため、三代目曾都毘古と関連する葛比賣などの系図と考えられる。丹波道主の娘である比婆須比賣は、初代襲津彦の家系、神武東征の協力者は吉備王の若建吉備津日子の娘の伊那毘能大郎女で、神武東征は吉備の力で勝ち取った。

また、虚空津比賣の姉である息長帶比賣の夫の帯中日子の父である小碓は、曾都毘古の名を旧の豊国王である豊(日向)襲津彦から贈られたと考えられる。熊襲の王は熊襲津彦、日向は熊襲、建国だが、建国王の名ならば、建彦すなわち倭建だろう。日向髪長太田根と日向襲津彦は『古事記』に記述されておらず、大伴氏の家系である可能性が高いと考えられる。

同様に『古事記』に記述されない、襲武媛が大伴氏の祖の豊国別の子で、建沼河別の末裔の阿倍氏木事の娘の高田媛は、大伴氏が神武東征で大和に来た時に妃にした姫なのだろう。木事は反正天皇妃の父である。

同様に『日本書紀』に記述されない小碓の妃の玖玖麻毛理比賣が、日向襲津彦の妹か娘と考えられる。これは『日本書紀』の五十河媛と考えられ、伊覩縣主の祖の五十迹手の祖なのだろう。子の足鏡別が、「あし」すなわち安芸の吾神の帯中日子なのだろうか。玖玖は久久能智と同地域の名前である。