2024年11月22日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話7 建飯勝の矛盾

  安寧皇后渟中底姫の婿は縣主波延であり、渟中底姫の兄・建飯勝は、出雲臣の娘である沙麻奈姫を妃にしている。しかし、崇神朝に記述される出雲振根も出雲臣の遠祖なので、出雲臣は懿徳朝の大臣である。そのため、皇后の兄である建飯勝が大臣の娘を妃にしていることは、世代的に矛盾することになる。建飯勝は皇后が叔母、懿徳天皇の娘婿・皇太子にあたる。

この矛盾を解消するには、建飯勝が襲名して2世代以上存在していると考えるのが理に適っている。建飯勝から建氏と氏族が代わっているので建氏は日向賀牟度美良姫の血筋である。賀牟度は「神門」で三国の皇族、阿多君の孫が相応しい。阿比良比賣、すなわち、阿多の比良姫と美良姫は名が似ている。したがって、1代目の建飯勝として相応しい人物は、日子八井が2代目天日方奇日方の綏靖天皇ならば、妃の伊須氣余理比賣の子である沼河耳は有力である。

沼河耳は、安寧天皇波延の妹の河俣毘賣を妃とし、その子である師木津日子玉手見は、その名からも王の側近であり、重要な役割を果たしていたと考えられる。玉手見は、安寧天皇波延の娘・阿久斗比賣に婿入りしている。

『日本書紀』において、安寧天皇の子は息石耳と懿徳天皇とされ、後に書き直されて常津彦某兄、懿徳天皇、磯城津彦としている。『古事記』が息石耳を記述していないのは、皇位継承の常道に従い、安寧天皇の娘婿である玉手見(息石耳)が皇位を継承して2代目安寧天皇だからなのだろう。つまり、安寧天皇の子は阿久斗比賣、常津彦の某兄の玉手見(息石耳)と妹の真鳥姫、すなわち、常津彦の某弟の懿徳天皇と師木津日子(常津彦)であると推察される。

安寧朝が38年続いたため、2世代程度の継承があったと考えられる。波延の娘の阿久斗比賣の夫、玉手見(息石耳・2代目波延・師木津日子の義弟の猪手)の娘の泉媛と師木津日子との娘である天豐津媛(真鳥姫)が出雲醜妃となり、本来は皇太子である師木津日子が即位するはずであった。しかし、彦湯支と同様の政大夫だった出雲醜は大臣になった。すなわち、襲名した2代目師木津日子は、妹の婿の政大夫の出雲醜に皇位を奪われたのではないかと考えられる。宗教上の天皇は大祢の可能性が高く、醜の名前が安曇川周辺で祀られる「しこぶちさん」ならば、大祢が「彦根」だったのではないだろうか。

2024年11月20日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話6 天日方奇日方の矛盾

  天日方奇日方が神武朝と綏靖朝の2世代にわたって存在しなければ、いくつかの矛盾が生じた。天日方奇日方の娘と、媛蹈韛五十鈴命の皇子との間に神武朝最後の天日方奇日方の子の日子八井が生まれた可能性がある。神武朝が76年にわたって続いたため、約4代の世襲があったと考えられるので、日子八井が天日方奇日方の子で襲名したことに矛盾はない。日子八井と伊須氣余理比賣とは従兄妹の関係で、伊須氣余理比賣は分王朝なので、天日方奇日方と呼ばないで日子八井と呼んだと考えられる。

美良姫との子の建飯勝は安寧天皇の皇后の兄なのだから、綏靖朝の鴨王、神武朝の天日方奇日方の子である。天日方奇日方妃の賀牟度氏の姫の子が鴨王なら良く当て嵌まる。日子八井は茨田連の祖であり、仁徳朝において茨田堤を築いた際に茨田連衫子を河神への生贄にした。茨田連は河内に住んでいた氏族であり、天日方奇日方の後裔である大田田根子も河内にいた。このため、日子八井が綏靖朝の天日方奇日方であれば、矛盾は生じない。

すなわち、綏靖朝廷の初期には、日子八井が天皇であったと考えられる。その後、阿多君の妹の子である當藝志美美が、綏靖皇后を妃として即位した。彦湯支は当初、綏靖朝の足尼であり、その後に政大夫となった。このため、綏靖朝の初めには、2代目の天日方奇日方、つまり日子八井が政大夫であり、彼が亡くなった後に彦湯支がその地位を継いだと考えられる。神武朝の時、天日方奇日方は政大夫ではなく、宇摩志麻治が政大夫だった。

その後、綏靖天皇當藝志美美は伊須氣余理比賣の子である沼河耳の反乱により敗北した。これにより、2代目の天日方奇日方の娘である渟中底姫安寧皇后が、夫である縣主波延と共に皇位に就いた。初代政大夫・宇摩志麻治の子(?孫)と義弟の沼河耳と共に、阿多君・鴨王(神君)の三国朝廷から物部氏の朝廷に権力が遷った。

2024年11月18日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話5 政大夫の矛盾

『古事記』の神国(三国)の倭の王の神倭毘古にとっての主君(天皇)は阿多君でその娘を妃にした。皇位は、宇摩志麻治から璽を得て皇后の媛を名乗った媛蹈鞴五十鈴命、前に国名が無い媛が天皇で、その婿が阿多君である。そして子供は二人、すなわち「彦八井耳」と「神渟名河耳」と記述されたが、五十鈴依姫は妹でなく娘で、綏靖皇后だったため、彦八井耳は婿の可能性がある。皇位継承は皇后の兄弟の子を婿にするのが基本的な力関係なので、阿多君の男子よりも、事代主の男子の血統が優先される。

したがって、天日方奇日方の長男が媛蹈鞴五十鈴命の長女に婿入りするのが通常の流れなので、彦八井が婿の可能性が高い。また、媛蹈鞴五十鈴命の長男は、弟の天日方奇日方の娘に婿入りするのが通常の流れ、その婿が政大夫天日方奇日方(阿田都久志尼)であり、神武朝の76年間は交互に継承されたと思われる。

『古事記』によると、伊須氣余理比賣の子は神沼河耳であり、彼の妃はまだ縣主になっていない、波延の妹である河俣毘賣だ。そして、『舊事本紀』にも同じく伊須氣余理比賣を媛蹈鞴五十鈴命の妹に記述するズレがあるため、伊須氣余理比賣の子が師木津日子玉手見ではなく、沼河耳である可能性が高い。

問題となるのは、天日方奇日方が神武天皇の世代でありながら、安寧天皇の父でもあることだ。これにより、神武天皇から綏靖天皇の2世代間で矛盾が生じる。したがって、天日方奇日方は2世代存在していなければ矛盾する。

天日方奇日方は食国の政大夫だった。天皇に対して、食国の大神の月讀が伊邪那岐に指名された最高実力者で、月讀に賜姓された政大夫が実質の天皇だった。政大夫の宇摩志麻治が食国から天皇の璽を媛蹈鞴五十鈴命に渡し、神朝廷が開かれた。おそらく、媛蹈鞴五十鈴命は天日方奇日方にも政大夫を賜姓したが、それは2代目の天日方奇日方だった。実際に成務を行うのは政大夫で、最高実力者なので、二人居るのは不自然だ。

2024年11月15日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話4 神武朝の矛盾

  国名がない「媛蹈鞴五十鈴命」が神武天皇である。史書を書いた人物にとって、誰もが知る最高位の人物の官位に国名など書く必要が無く、天皇(比賣・日子・縣主等)誰々だ。そうでない人物の官位には国名が付加される。『舊事本紀』によれば、事代主の子は「天日方奇日方」と「媛蹈鞴五十鈴命」であり、五十鈴依姫(伊須氣余理比賣)も媛蹈鞴(比賣多多良)を受け継ぐ姫だ。しかし、事代主の子は二児だったため、五十鈴依姫は媛蹈鞴五十鈴命の妹ではなく娘として記述されなければ、矛盾する。

すなわち、『舊事本紀』は媛蹈鞴五十鈴命を『古事記』の記述と合わせて、富登多多良伊須須岐比賣と同一人物としてしまったと考えられる。富登は神門(ミカド)に対する穂門の意味なのだろうか。媛蹈鞴五十鈴命の二児の子供には、五十鈴依姫と後継の長女の媛蹈鞴五十鈴命を襲名した媛が存在したのだろう。そして、『古事記』が記述するように、五十鈴依姫の子が神沼河耳だったと考えられる。日子八井命は襲名した媛蹈鞴五十鈴命の神八井耳は多藝志美美の娘婿の可能性がある。

『古事記』の神武天皇は神倭伊波礼毘古で、綏靖天皇は神沼河耳である。勿論、この名は臣下の名前で、神は「ミ」、君子国三国・神国を意味し、神国の臣下の倭の毘古であり、耳(三国の神)である。伊波礼毘古の倭は八国(野洲)を意味し、君子国配下の野洲の毘古(将軍)を意味し、伊波から野洲に遣って来た氏族を意味する。子の多藝志美美も若狭(出雲)の小濱に婿入りした耳(三国の神)、すなわち王族と言う意味だ。

神倭毘古は君子国の臣下であるが、神倭毘古の項に記述される王は阿多君のみ記述される。阿多君は出雲の大山津見の娘の神阿多都比賣の孫で、君は君子国の王の官位である。すなわち、君子国(神国)の王が阿多君ということになる。阿多君自体は阿多の君子国の王族だが、神倭毘古を配下に出来たのは、阿多君が媛蹈鞴五十鈴命の婿になったからと考えるべきだろう。

出雲は神倭毘古の頃は若狭にあったが、その出雲に神門臣という氏族がいたが、神の門は帝の意味で、初代天皇の一族がいた。門は河神の戸()なので、神神戸は意味不明、神国(ミクニ)の河神の「カ」の戸、「ミカド」臣が古い読み方と考えられる。神門臣の姫の名は大田田祢古の妃の美氣姫、気比の姫、崇神朝の頃の気比は神功皇后が伊奢沙和氣大神と氣比大神と名を交換する前なので大津にあった、大津の姫、大津に師木水垣宮があったと考えられる。

2024年11月13日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話3 神朝廷

  伊邪那岐が伊邪那美を葬る前に、杖から「岐神(船戸神)」が生まれた。『舊事本紀』には「投其杖是謂岐神」とあり、これが岐神だ。「港」を表すのに「岐」という漢字を用い、前に国を付けない岐神(キミ)の子の国が君子国を指すと理解できる。

岐神は三国(神国)の神、つまり三島溝咋などのことだ。「咋」は「君子国の神」を意味し、これは「熊や倉」の「ク」や、皇大神宮がある位川の「イ」と関連しそうだ。『伊未自由来記』の結果から、三島溝咋と出雲の大山祇との間には大乱が起きたが、美豆別之主、丈夫国の胸形の出身の高皇産巣日、そして八国の事代主との同盟によって勝利したようだ。高皇産巣日の孫の迩迩藝の妃は大山祇の娘の神阿多都比賣、迩迩藝は阿多氏の王になった。

高皇産巣日は「高皇」、恐らく、出雲氏を追い出して高浜王となった。神を皇に置き換えて「ミ」と読むようになったこの神は、三国の神ではなく、高浜に来た海神を指していると考えられる。『古事記』でも「御」という漢字を用いており、天照大御神と同じ表記法だ。そして、その部下である活玉命の妹、活玉毘賣と三島溝咋の間に生まれた娘が活玉依姫だったと考えられる。依姫の名は、王朝の分家の後継者を意味し、王権交代があったことを示唆している。それは、活玉依姫の娘の比賣蹈鞴五十鈴と夫の阿多君(君は君子国の王家官位)の神朝廷である。

また、番能迩迩藝と神阿多都比賣の子である火照は、阿多君の祖だ。世代から考えて、その子が阿多君であり、阿多君は三国の王、つまり三島溝咋の娘婿の王の可能性が高い。三島溝咋の娘が活玉依姫なら、活玉姫が跡取りだろう。そのため、火照の妃は活玉姫と考えられ、事代主と義兄弟になったと考えられる。さらに、天太玉の妹であると考えられる豊玉毘賣と火遠理の間に生まれた子が葺不合だったので、その妃が()玉依姫だ。自国の妃に国名を書くことは無い。

小椅君の妹である阿比良比賣の婿は高木神を祖とする人物だが、高皇産巣日の子には葛木氏の祖と言われる天活玉も存在し、この人物が高木神と考えられる。劔根の父は玉依彦、玉は王、王家の分家を意味し、玉依姫を継承している。

2024年11月11日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話2 君子国

  君子国は周饒国を「衣冠帶劍」という武力を担う「於漏知」を使って侵略した。黄帝は『山海經』に「天地鬼神是食是饗君子服之以禦不祥」として、不運を避けるために鬼神を祀り、君子も鬼神に服したとされている。日本人は「木神」を祀る国が君子国と理解したので王に君の文字を使ったと思われる。ここでの鬼神とは、木根()を神として祀る対象にしていることを指していると思われ、遼東半島にあった「鬼国」もまた、君子国の兄弟国であったと考えられる。この鬼国の本家が「於漏知」であり、三国の君子国がその鬼国を統治していた。

周朝は、東の「周饒国」(隠岐・あまねく豊かな国)に対し、西の周を名乗った。これは、後の殷を継いだ西周の話ではなく、黄帝が活躍した夏朝が開かれる前の出来事だ。

紀元前660年以前には『日本書紀』の内容を記録した文字に類するものがすでに存在しており、九州では延光四年、125年に篆書体を交えた文字が発見されている。篆書体が使われたのは秦までで、それ以前から文字を使用していたことを示す。正しい日干支とそれに付随した記事があるのだから、漢字でなくとも文字に類するものが無ければ記録を残すことは不可能だ。

隠岐の「食国」は、月讀や於佐の神が統治していたが、君子国に敗北した。『伊未自由来記』は交易によって、収まったと述べるが、実質は敗北と思われる。そのため、月讀や蛭子の説話がほとんど残されていないのではないだろうか。

対馬から遣って来た「津見」の一族、大山津美や加須屋の海祇(海の神)は牟遲や産巣日などの地名を持って移住してきた。アカホヤの噴火で逃げた人々も多く存在し、その一部が蓋州や朝鮮北部に逃げ、他の人々は黄海の朝鮮半島西南岸や済州島に逃れた。これが天(吾魔・倭)であり、日本海や太平洋沿岸に逃れたのが阿蘇(吾祖・委奴)であったと考えられる。天橋立にも阿蘇海が存在するのは、阿蘇の名を持って遣って来た痕跡かもしれない。

2024年11月8日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話1 日本語

  三国は『山海經』に記述される「君子国」と呼ばれる国で、周朝が理想とした国だったようだ。首都は敦賀であり、舟を造る「大人国」の隣に位置していた。この君子国の建国は1万年前にさかのぼると考えられる。木の葉比等がアカホヤで隠岐に到着した際、出雲にはすでに大山祇が存在し、それが大人国だったようで、君子国の兵士と思われる於漏知と山祇が争っていたので、当然存在していたと推測される。

黒曜石は神津島から千葉や静岡に運ばれ、翡翠は九州や北海道、さらには朝鮮など、さらに広域にわたって取引されていた。おそらく君子国は、諏訪湖の黒曜石と糸魚川の翡翠を交易するため、大人国の舟を必要としていたのだろう。黒曜石を産出する八ヶ岳は、八国の信仰の対象であった可能性が高い。

建御名方が国譲りで敗れ、諏訪に逃れた理由は、諏訪湖が彼の故郷だったからだろう。諏訪で行われる御柱祭は、木神(鬼神)を祀る起源かもしれない。高度な縄文土器が創られた頃の事だろうか。

敦賀という地名は、「津に来た」川の神のことを意味し、八百万神は八国に百以上の種族がいて、「ついたち」に敦賀の津に寄り集まった神々(万神)を指していると考えられる。大人国の宮は舟を造る伊根の舟の港(フナ門)、隠岐は「神奈門(ミナト・奈岐神の宮の門)」、君子国は「神()(ミキド→ミカド)」なのだろうか。

海から来た人は「神子(ミコ)」、日国から来た人は「ヒコ」、胸形から来た霊は「ムチ」、日から洲、そして胸形を経由した神は「ムスヒ」と呼ばれる。これらの言葉の構造は「膠着語」と呼ばれている。

名詞に「ラ」行の動きをつける動詞で言葉を終わらせる。日国から来た子の「ひるこ」の「こ」のように、名詞に動詞に更に名詞を加えて名詞が膨らむ。於漏知は霊が雄々しく遣ってくる霊のことを意味し、山祇は「ヤ」魔(八国の霊)と津神の婚姻で生まれた神なのだろうか。名前は地名の履歴を表す。他氏族の子は定住する自氏族の子と分けるために、日子などと出身地を付加する。日子や牟遲、産巣日が集まった場所が敦賀や若狭、神話の中心地である。

2024年11月6日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話17 歴史時代

  葛木氏は御真木入日子の時代から歴史として記録され始めたと述べたが、『日本書紀』は紀元前667年から歴史時代が始まった。私はAI『日本書紀』の暦に関する論争を行い、勝利した。『日本書紀』に記述された朔の日干支は正確だが、それを求める計算には16世紀に採用されたグレゴリオ暦の知識が必要である。しかし、『日本書紀』には11世紀の岩崎本という、もっと古い写本が存在する。つまり、後から書き換えられたものではなく、古代に正確な記録が残されていたことを意味する。

AIも、「古代の人々は観察できた範囲で正確に朔の日を記録しており、その結果が現代の天文データとも一致している。これがもっとも矛盾の少ない説明である。」と認めた。

では、なぜ中国では晦や朔が混在していたのに、日本では朔がずっと朔として扱われていたのだろうか。それは日本語から簡単に理解できる。日本語では、晦日は「ミソカ」と呼ぶ。これは30日を意味するが、小の月では29日が晦日だ。このため、日本国は中国の「晦」を「ミソカ」と思い、それを30日目の朔日だと理解した。大の月の晦日は「オオミソカ」と呼ばれている。おそらく、中国の晦は年366日の太陽暦の名残で、太陰暦にした時に30日目が晦で朔と同意語だったのだろう。

倭国は中国の暦を使用していたが、「晦」が「朔」と理解していたため、日本国の29日や30日と1日のズレが生じた。しかし、日本語では朔日を「ツイタチ」と呼ぶ。これは「津に他氏族の神が集まった日」という意味がある。晦日は日本語では「ツゴモリ」と呼ばれ、神様()が津に籠る日を意味していた。そして翌日、神々が津に集まった。日本国は倭国と異なり、朔と晦は全く別物だった。

対馬の月讀が津に籠り、その配下が翌日津に集まった。食国の政大夫である宇摩志麻治や天日方奇日方、彦湯支、出雲醜も、朔日には食国にいたと考えられ、その記録が残されていたのだろう。しかし、葛木氏はそのような記録を持っていなかった。

2024年11月4日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話16 息長氏

  遠津臣の娘である高材比賣の子に息長宿禰が存在し、彼は葛城の高額比賣を妃に迎え、息長帯比賣を生んだ。遠津は、近い津である大津に対する「遠い津」で、草津のことを指すと考えられる。そして、伊勢遺跡がある守山市の隣町の草津の遠津氏の娘の子に豐鋤入日賣が存在したと思われる。

比古布都押之信の世代に、葛城の垂見宿禰の娘である鸇比賣が存在し、子に建豐波豆羅和氣がいる。葛城の宿禰なのだから、輕宮の葛木氏の天皇の娘であり、子が豐国に移住した人物のようだ。

高額比賣は多遲摩毛理の弟である多遲摩比多訶と、清日子の娘である由良度美との娘で、葛木氏は葛城の垂見宿禰からその氏を継承したと考えられる。なぜなら、多遲摩毛理は常世国から非時香菓(高麗橘)を持ち帰ったが、済州島(常世)と萩(多遲摩毛理の出発地)にのみその木が自生する。すなわち、伊久米伊理毘古の宮も萩近辺にあったと考えられる。神功皇后が穴門の山田邑に宮を建てた場所も、萩の隣であり、萩や穴門は豊国に属する。

つまり、伊久米伊理毘古、多遲摩毛理、豐鋤入日賣、息長宿禰は同じ系統の人物であったと考えられる。豐鋤入日賣は伊勢の女王、息長帶比賣は穴門と糟屋の斎王であった。そして、息長帶比賣は栗東市の坂田宮伊勢斎王禊祓所で禊祓を行った女王国の女王であったとも考えられる。『舊事本紀』によると「氣長足姫命是息長地名在近江國坂田郡」とあり、坂田は息長足姫が生まれた地である。

帯中日子も豊国の安芸の王であり、妃である息長帶比賣は品陀和気(襲津彦)の母であった。『紀氏家牒』の時代はすでに神話ではなくなっていたが、人の名前はその履歴書である。

師木に首都があったのに、御真木入日子や伊久米伊理毘古は矛盾しており、また、首都が纏向でも同様である。纏向宮に王が住んでいた場合、渟名城入姫がその王であった可能性が高く、渟名城入姫は大和神社を創建した。しかし、渟名城入姫を祀る渟名城入姫神社は、大和神社から離れた纏向に近い場所に祀られている。箸墓の被葬者の倭迹迹姫は世代が異なる。

2024年11月1日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話15 少名日子建猪心

孝元天皇の子である少名日子建猪心は、『日本書紀』に倭迹迹姫と言い換えられており、彼が倭迹迹姫の婿であったと考えられる。実際のところ、少名日子建猪心は景行天皇の時に記述されるように、比古布都押之信の後代の野洲王の名前である。少名日子建猪心は「少名日子」という名前の通り、吉備小国の王であり、若建吉備津日子の娘である針間之伊那毘能大郎女に婿入りした、吉備の王であったと考えられる。

御真木入日子の宮は318年まで続き、その後、若帯日子の宮が355年まで続いた。伊久米伊理毘古と大帯日子の宮が並行して存在していた可能性が高い。御真木入日子の宮の後に続いていたなら、王の薨去日の記録があるはずで、それを記述しないのは、傍系の王家だったためと考えられる。

少名日子建猪心という分家が開かれたのは、屋主忍男武雄心と呼ばれていた150年頃までに開かれたと思われる。景行3年西暦73年に屋主忍男武雄心は紀伊国、これは木国に祭祀する宮を造って、武内宿祢が生まれたと記述する。73年では日干支が間違いであり、纏向に首都が在り、その隣国は領域と考えられ奇異である。130年ならば、日干支も正しく、景行天皇は128年に穴穂へ追い出されているので、屋主忍男武雄心が木国に宮を建てるのは理に適う。宮を建てるということは、侵略して、山代の内臣の首領になったことを意味し、それが内臣の宿祢()の紀(木国)の武内大臣である。

そして、本家の屋主田心の曾孫が成務天皇の時代に高志国造の称号を授けられたので、少名日子建猪心は屋主田心から分かれた家系だろう。本家である紀氏は仲哀天皇まで仕え、200年頃には葛城国造の庇護を求めて移住した。

少名日子建猪心は若建吉備津日子の娘に婿入りし、その子である小碓が日向襲津彦を殺害し、襲津彦の地位を継承した。建猪心兄弟は、小碓と大碓の可能性がある。紀氏は仲哀天皇まで屋主であり、その名の通り、野洲の王であったが、大和の葛城に逃れた。この時、大臣の地位を武内大臣から丸迩の比布禮能意富美が奪ったと考えられる。

2024年10月30日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話14 春日から葛城

  大毘毘は春日の伊邪河宮の大綜杵の娘の伊迦賀色許賣に婿入りした分王家で、『日本書紀』に記述されない、春日の建國勝戸賣はその後継者、その後、大闇見戸賣、沙本毘賣と継承されたと考えられる。一世代後の妃なのだから、可能性は高い。そして、妹の倭迹迹姫が輕の堺原宮の跡取りなのだから、比古布都押之信が安曇川近辺に住んで輕宮の王位を継承した。

春日臣の祖は孝安天皇彦國押人(天戸目)、その娘の春日千乳早山香媛の娘の婿が蝿伊呂杼、その娘が建國勝戸賣なのだろう。すなわち、春日千乳早山香媛の娘は弟波延、その子が大綜杵で妃は内色許男の娘の伊迦賀色許賣、すると、大綜杵の妹には内色許男の子の大峯大尼が婿になった可能性が高い。

竟富那毘の妹が葛城の高千那毘賣なのだから、父は同じ葛城の垂見宿禰で、母は葛󠄀城尾治置姫、葛󠄀木尉直(󠄀木直)の祖の建箇草(󠄀木宿禰垂見)の娘の鸇比賣の婿が比古布都押之信なのだろう。葛城の垂見、神を「帯す」のは、大倭根古の国玖琉で、官位は王家によって呼び方が異なる。

󠄀木直の祖の諸見足尼(垂見宿禰)の娘が諸見巳姫、夫が建諸隅である。建諸隅の子の倭得玉彦が竟富那毘と同名の亦の名が大稲日なので、倭得玉彦が竟富那毘の娘の意富阿麻比賣(󠄀木髙名姫)を妃にして、その子が物部武諸遇を継承したと考えられる。

大毘毘が婿入りした先は大綜杵の娘の伊迦賀色許賣で、子が御眞津比賣と御眞木入日子、御眞津比賣の夫が御眞木入日子である。三国山の山麓の琵琶湖側の高島市のマキノ町、三()のマキ()に大荒比古神社がある。大荒田の娘は玉姫で婿が建稲種、子が270年からの応神朝大臣の尾綱根なので、琵琶湖西岸に首都があった。そして、318年に尾治弟彦が難波で朝廷を開き、伴って荒田彦が葛城の高額比賣の婿となって大和の葛城に遷ったのだろう。荒田彦の娘が葛比売、その子が襲津彦、葛城野伊呂賣へと継承され、伊奢能麻和迦が生まれた。葛比売が帯中日子の妃なのだろう。

2024年10月28日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話13 葛木氏と木国

  比古布都押之信の妃である葛城の高千那毘賣が登場した後、362年に薨じた息長帶比賣の母である高額比賣までの間、葛木氏の記述が欠落している。『紀氏家牒』には、紀武内宿祢が紀伊国造である莵道彦の娘の子供として紀氏を名乗ったと記録されている。

紀氏は「歴事六代君」と開化、崇神、垂仁、景行、政務、仲哀の6代の天皇に200年頃まで仕えた。紀氏はその後、「凡春秋二百八十余歳家大倭国葛城県」とあるように、春秋280回、つまり約140年にわたって大倭葛城縣に340年頃まで居住したと考えられる。彼の住んでいた大倭国は、『紀氏家牒』が清寧天皇以降に記述されたのだから大倭は大和、その大和の葛城地方に140年間宮を持っていたようだ。つまり、紀氏は淡海(近江)にある紀里から木国を経て大和の葛城に移り、後に平群県の紀里に居住し、さらに紀伊国に移った。紀里という名を持ち歩いた。

葛木では、帯中日子の子の394年に崩じた襲津彦が、葛城国造荒田彦の娘・葛比売の子として生まれた。すなわち、品陀真若が応神天皇で、襲津彦が品陀和気と思われるので、362年に薨去した息長帯比賣は葛比売であり、その母が葛城の高額比賣だったと考えられる。襲津彦の妃は、大伴氏の孫と思われ、『日本書紀』で日向を名乗る泉長媛の可能性が高い。子が大葉枝、小葉枝と安寧天皇波延の名を引き継いでいるので、姉妹に婿がいるのだろう。それが、襲津彦の娘の石之日賣と髪長比賣、孫は石之日賣の子の伊耶本和気天皇である。幡日之若郎女は長男が日向諸縣君に婿入りしたと考えられる。

このように、比古布都押之信は春日で生まれ、彼の子孫は後に山代の内臣や屋主(野洲王)と少日子(小国王)という人物が生まれたのだろう。比古布都押之信は葛木の輕に住み、妃である内色許賣が「しこぶちさん」を祀る安曇川南の葛川近辺にいたと考えられる、葛城の高千那毘賣に婿入りしたのだろう。高千那毘賣の兄は木国造の婿で、尾張連の祖なので、この姻戚関係が履中朝まで続いた。

2024年10月25日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話12 葛城天皇の系図

孝霊天皇の子の孝元天皇の妃は内色許賣で、伊迦賀色許賣は皇后の兄の内色許男の娘として記されている。開化天皇の妃である伊迦賀色許賣が大綜杵の子であることから、内色許男の娘である1代目の伊迦賀色許賣は大綜杵の妃だったことが解る。孝霊天皇から複数の妃が記述されているが、急に複数の妃を記述する理由が無い。

王朝は、代々、皇后の娘と皇后の兄弟の子との婚姻で継承されたのだから、複数の妃がいたとしても、記述する妃は一人である。他の妃の子は王朝交代に関係が無いので、記録として残す必要がない。複数の妃は孝元天皇の妃に、皇后の内色許賣の兄弟の娘を記述したように、皇后の親族を記述したと思われる。その王朝は、皇后の王朝なのだから。

2代目伊迦賀色許賣の子、比古布都押之信は尾張の連の祖の竟富那毘の妹である葛城の高千那毘賣を妃とし、山代の内臣の祖を生んだ。安曇川近辺の葛城の毘賣ということから、「しこぶちさん」を祀る内色許賣の娘である可能性が高い。『日本書紀』には記述されていないが、注釈では内色許賣の子の少名日子建猪心という天皇の母弟とされる人物が登場する。これは、「母弟武石彦」と同じように、大毘毘の義母の伊迦賀色許賣の系統の弟だということを意味している。

大毘毘の妃である2代目伊迦賀色許賣は大綜杵の娘であり、その弟が少名日子建猪心で、『日本書紀』でいう倭迹迹姫の婿と考えられる比古布都押之信に該当する。すなわち、少名日子建猪心と書き換えられた倭迹迹姫が葛城の高千那毘賣であると推測される。

『紀氏家牒』や『日本書紀』には、景行天皇の時代に孝安天皇の曽孫の屋主忍男武雄心が比古布都押之信の子の武内宿禰の父として記されている。つまり、高千那毘賣の子、味師内宿禰が少名日子建猪心の名を引き継いで吉備の王になり、後裔は成務天皇の時代に野洲の王である屋主武雄心(田心)となった。彼の子の建内宿禰が大臣になり、屋主武雄心の孫である市入が高志国造になった。

2024年10月23日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話11 孝霊天皇

  孝霊天皇の妃は細比賣であり、彼らの子供が孝元天皇である。しかし、孝霊天皇には他にも倭國香媛(別名:絚某姉)と絚の某妹という妃がいたとされ、彼女らは縣主波延の末裔である可能性が高い。ただし、「イロネ」・「イロド」は姉の夫、妹の夫の意味で、天皇の義兄弟である。

安寧天皇の子である師木津日子には子に某姉と某妹をもつ和知都美と別の子供もおり、その子孫が須知、那婆理、三野の王家を築いた。そして三野国造の祖は八瓜(神大根)、三野国造は弟彦で、これらが師木津日子は尾張氏の祖である。ただし、三野後國造は出雲大臣の孫の臣賀夫良で、もう一人の師木津日子の子が懿徳天皇と姻戚だった。

孝霊天皇の子である孝元天皇の妃は内色許賣で、彼は首都を懿徳天皇と同じ輕に遷した。内色許賣は、出雲大臣と同じ地域の女性であり、それに対応して、出雲大臣の孫と和知都美の子が婚姻し、波延の土地を引き継いだ可能性が高いと考えられる。王家は相互に婚姻しあって存続を図る。

孝霊天皇の妃である細比賣の姉妹または従姉妹が、絚某姉と絚某弟だったと考えられる。また、『日本書紀』に記載のない孝霊天皇の兄弟、大吉備諸進は細比賣の兄であり、孝安天皇の子・建斗禾だと推測される。後に絚某姉と絚某弟の子供たちが「吉備臣」と名乗ったのも偶然ではないだろう。

 孝安天皇の娘である細比賣は尾張氏のむすめなのだから、義兄妹の大吉備諸進は妙斗米であると考えられる。建箇草は「多治比連津守若倭部連葛木尉直」の祖先であり、これらの姓は葛木氏の末裔にあたる。孝霊天皇の日子賦斗迩は天忍男の家系であり、建箇草と合致する。また、絚某姉は建斗禾の妃である中名草姫と考えられ、また、六人部連の祖・妙斗米が絚某弟に婿入りした。妙斗米は大綜杵の孫であり、六人部連の祖である安毛建美とも繋がっている。このことから、賦斗迩、建斗禾、妙斗米はいずれも十市縣の王名によく合う。

 

2024年10月21日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話10 葛木氏の天皇

  孝安天皇、彦國押人は、姪の大倭帯日子國押人の娘である押媛を妃に迎え、孝霊天皇の皇后となる細比賣を産んだ。また、大倭帯日子國押人は孝安天皇の娘、忍鹿比賣を妃にし、孝霊天皇、日子賦斗迩を産んだ。勿論、83年も王朝が続いているので、互いの婚姻で氏族を存続させて、彦國押人も大倭帯日子國押人も4代程度、押媛も忍鹿比賣も両家の娘の従妹である。前項の氏族間の婚姻制度そのもので、葛木日子と師木日子の主導権争いを伴う氏族の維持である。

『日本書紀』では、孝安天皇の妃は磯城縣主の葉江の娘や十市縣主五十坂彦の娘として記されている。また、『古事記』では孝霊天皇の妃も十市縣主の祖、大目の娘であるとされている。このような経緯で、葛木氏の大倭帯日子は、天皇縣主波延朝廷の娘である忍鹿比賣を妃にし、その息子の日子賦斗迩が葛木氏の孝霊天皇として即位したと考えられる。

すなわち、十市縣主になっていない、天皇縣主大目の跡継ぎの長女は皇位を奪われ、十市縣主に賜姓された。後継者が阿禮比賣だったのだろう。また、首都が葛木なのだから、葛木氏が優位になるのは当然の帰結である。

その十市縣主の祖の縣主大目の娘の細比賣を孝霊天皇は妃に迎えた。天皇が細比賣に婿入りしたのに前天皇が十市縣主になったのは、春日千千速眞若比賣の住む黒田に遷都したからだろう。長浜には春日神社があり、木之元に黒田があり、黒田神社がある。黒田廬戸宮によく合致する。

後の十市縣主の皇子は建斗禾と妙斗米と考えられ、彼らの父である天戸目の妃は葛木避姫である。孝安天皇の首都、婿入り先が葛木の室の秋津島、押媛が葛木彦の子の日本足彦國押人の子であるため符合する。すなわち、天戸目が孝安天皇であったことが解る。この後、また師木が首都になるということは、師木日子の末裔が妃になって、皇位を奪取することを意味する。それが意富阿麻比賣で、師木宮の皇后である。

2024年10月18日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話9 氏族間の婚姻制度

孝昭天皇は、御眞津日子の子と葛木彦の子を婿として迎えたと述べた。『後漢書』には、「國多女子大人皆有四五妻」とあり、大人(日本人が言う主)の男性が多人数の妻を持っていたことが記されている。「餘或兩或三」とその周りの臣下は2・3人。しかし、通常は男女比では男子が少し多いはずだが、『後漢書』の日本では男子が少ないと記述する。これは、多くの男子が他の氏族に婿入りして、外に出、下層民は嫁を得られないためだと考えられる。

『後漢書』には、「歴年無主」とあり、王は主、また、「卑彌呼年長不嫁事鬼()神道」、卑弥呼は嫁がず鬼国(木祖を祀る国)の国神を祀る神子(禰宜)だったことが記されている。古代の皇后は、子を産む神と見なされ、氏族を維持する重要な役割を果たしていた。氏族を存続させるためには、主(縣主)の后()の長男・長女と、后の兄弟の使主()の長男長女が婚姻関係を結ぶ。后の娘は使主の長男を迎え、その後も従兄妹の間で婚姻が続いたと考えられる。同じ宮、同じ集落内での婚姻である。

こうして、氏族の長男は、次世代の氏族を維持するための婚姻相手となり、次男以降の男子は他の氏族に婿入りして新たな近縁氏族を形成していく。しかし、全ての男子がこのように婚姻できるわけではなく、多くの男子は氏族を離れ、結果として男子の数が少なくなったと考えられる。

葛木氏と波延の家系は、長い間、婚姻関係を保ち続けた。しかし、同族間で婚姻が続けば遺伝的な問題が生じ、男子が育ちにくくなる。そこで、婿入りを通じて他の氏族と次女との婚姻関係を結ぶことで、氏族の存続を図る。それが、依姫のような波延某弟による孝安王朝の相続である。

孝昭天皇の次女に孝安天皇が婿入りし、これによって葛木の掖上から同じ葛木の秋津嶋宮に首都が遷された。同様に、孝元天皇も懿徳天皇と同じ氏族の軽宮に婿入りし、氏族を存続させた。これにより、内色許賣が懿徳天皇と同じ氏族に属していたことが示されている。これは、男系の王朝交代である。

2024年10月16日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話8 葛木氏と尾張連

  御眞津日子訶惠志泥は、奧津余曾の妹である余曾多本毘賣を妃に迎え、大倭帶日子國押人を生んだとされている。和知都美は奧津余曾の妹である世襲足媛を妃に迎え、蝿伊呂泥と蝿伊呂杼を生んだが、『舊事本紀』では、彦國押人と日本足彦國杵()人を生んだとされている。孝昭天皇は御井宮から葛木の掖上に婿入りし、孝安天皇も首都は葛木で、奧津余曾は葛木彦になっている。『古事記』によれば、孝昭天皇の子は、波延の姉の夫と妹の夫なので、二人とも婿であったと考えられる。

御眞津日子の子である日本足彦國杵()人が蝿伊呂泥の婿となり、奧津余曾の子である彦國押人が蝿伊呂杼の婿となった可能性が高い。古代の王位継承は長女が相続し、同じ氏族間の王朝交代は長女で無い姫の依姫が継承する。

比古布都押之信の義理の兄である竟富那毘は、尾張連の祖であり、その父は建斗禾で、建斗禾の父は天戸目、天戸目の父は忍人で、忍男の子の尾張の連の祖の奧津余曾とは別系統である。尾張の連の祖の奧津余曾の子が忍人の婿の天戸目(彦國押人)であれば整合性が取れる。また、比古布都押之信の妃の竟富那毘の妹が葛木之高千那毘賣で、比古布都押之信が葛木の氏を引き継いで、竟富那毘は尾張連の祖を引き継いでいる。

天忍人の子供は天戸目と大蝮壬生連の祖である2代目の天忍男であり、奧津余曾の父の名の忍男を襲名しているのは婿になったためと考えられる。奧津余曾の()弟である建額赤が奧津余曾の妹の婿の御眞津日子である。建額赤の妃が葛󠄀城尾治置姫であったのだから、兄の奧津余曾も葛木氏なので葛木彦を名乗った。尾張氏の祖でもあったのは、葛󠄀城尾治置姫(余曾多本毘賣)が妹でないと奧津余曾が尾張出身とは言えなくなる。額赤の子供である建箇草は、若倭部連や葛木尉直の祖であり、若倭根子の末裔が若倭部で葛木氏を引き継いでいる。

2代目忍男が祖の大蝮壬生連の壬生部は伊邪本和氣の御名代であり、葛城部も同時に定められた。蝮部も水齒別のために作られた御名代であり、葛木氏の部民であったと考えられ、どちらも天忍男の後裔である。

2024年10月14日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話7 多藝志比古

大倭日子耕支の妃は、師木縣主の祖の賦登麻和訶比賣で、彼女は懿徳皇后の天豐津媛と同一人物なのだろうか。『古事記』は、大日本根子彦を「大倭日子」、天豊津を「賦登麻和訶」と記述している。大日本根子彦は天皇の姓、大倭日子は大倭王の意味だ。

『古事記』は多藝志比古が賦登麻和訶の子にしているが、『日本書紀』は「觀松彦香殖稻天皇一云天皇母弟武石彦奇友背命」と多藝志比古は天豐津媛の弟と記述する。『舊事本紀』は懿徳天皇の弟に記述しているが、懿徳天皇も婿だからと考えられる。『古事記』は沼河耳が波延と同世代なのに、綏靖天皇と同世代にしたため、同じように一世代ズレたからだろう。師木縣主の祖である賦登麻和訶比賣で、かつ、師木縣主の祖は河俣毘賣でもある。すなわち、賦登麻和訶比賣は河俣毘賣の娘で、息石耳が沼河耳である。息石耳の娘が懿徳皇后の天豊津媛なので賦登麻和訶比賣は同世代で整合する。

また、天豐津媛と姉弟(?義姉弟)の多藝志比古は懿徳天皇の義理の弟にあたり、共に息石耳の子供だが、『古事記』には記述がない。同様に『古事記』には記されていない葛木氏の剣根の娘である賀奈良知姫が存在する。賀奈良知姫は、琵琶湖の沖ノ島に住むと思われる葛木彦奧津余曾の母であり、息石耳の子孫である可能性が高い。

奧津余曾は孝昭天皇の時代の人物で、懿徳天皇の世代は父の忍男が存在していた。奧津余曾の妹が御眞津日子の妃となり、奧津余曾が多藝志比古を襲名したのなら『古事記』と義兄弟で整合する。すなわち、初代の多藝志比古が忍男である可能性が高い。忍男は當藝志美美の妹か従妹の阿俾良依姫の子なので、名前の継承からも、一世代のズレがあるがこれも襲名したのだろう。

すなわち、劔根・息石耳の婿の忍男が建甕槌と共に義兄の懿徳天皇から皇位を奪い、孝昭天皇を即位させた。すなわち、天豊津媛の妹の師木縣主の祖の賦登麻和訶比賣が賀奈良知姫、多藝志比古忍男が師木縣主の太眞稚彦、娘の世襲足媛が飯日媛と考えられる。

2024年10月11日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話6 神沼河耳と皇位継承

  神沼河耳は、綏靖天皇の妃である多多良伊須氣余理比賣の義理の弟、もしくは子供だが、皇位は義理の兄であり、名前に国名が付かない縣主波延が即位した。神沼河耳の子である師木津日子玉手見は、安寧天皇波延の娘である阿久斗比賣を妃に迎えた。阿久斗比賣は師木津日子の姉だが、師木津日子は国名が付き、天皇の名前ではないため、天豐津媛の夫が懿徳天皇になったことがわかる。懿徳天皇の后である天豐津媛は息石耳の娘とされているため、息石耳は師木津日子の一世代前の神沼河耳と同世代の人物のようだ。

『日本書紀』では、安寧天皇の子として最初に大倭日子鋤友ではなく息石耳が記載されている。しかし、息石耳は懿徳皇后の天豐津媛の父であり、安寧天皇波延と同世代に属する。『日本書紀』の、大倭日子鋤友の子である御眞津日子の項には、「天皇母弟武石彦奇友背」と記されている。懿徳天皇の子供には多藝志比古と御眞津日子がいるが、多藝志比古は懿徳天皇の義理の兄弟である。つまり、多藝志比古と大倭日子鋤友、そして師木津日子玉手見は同世代であったということだ。

大倭日子鋤友の妃は、師木縣主の祖である賦登麻和訶比賣であり、彼女は師木縣主の祖河俣毘賣の娘にあたる。したがって、懿徳天皇は玉手見の義兄弟、神沼河耳は『日本書紀』に登場する磯城縣主葉江の義理の弟である猪手と同一人物であると考えられる。また、大倭日子鋤友は『舊事本紀』に「大日本根子彦耕支」と記されており、これは葛木氏の天皇名であり、懿徳天皇に当てはまる人物だ。

多藝志比古は、名前の継承から考えると、當藝志美美かその姉妹の後裔である可能性が高い。多藝志比古は『舊事本紀』によれば安寧天皇の后・渟中底姫の子供とされており、息石耳は記述されていない。『日本書紀』には懿徳皇后が神沼河耳と考えられる猪手の娘とされることから、神沼河耳が息石耳の可能性が高く、玉手見が名を継承し、阿久斗比賣の婿として、安寧天皇の子に挿入された可能性が高い。常根津日子伊呂泥の伊呂泥は姉の夫である。

2024年10月9日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話5 綏靖天皇の実像

  『舊事本紀』・『日本書紀』によれば、綏靖天皇は神沼河耳とされているが、『古事記』では安寧世代で一世代ずれているため、當藝志美美が本当の綏靖天皇だと考えられる。そのため、『古事記』では多多良伊須須岐比賣と多多良伊須氣余理比賣が同一人物として記載されている。しかし、唯の比賣と余理比賣は意味合いが異なり、主家の女王と分家の王妃にあたり、唯の比賣は跡継ぎの長女も唯の比賣である。

『日本書紀』では日子八井についての記述がなく、また、伊須氣余理比賣は彼の母ではなく、兄妹として『舊事本紀』に記載されている。『古事記』には「當藝志美々命娶其嫡后伊須氣余理比賣」とあり、『日本書紀』には「手研耳命行年已長久歴朝機」と記載されていることから、當藝志美美が綏靖天皇であり、彼の皇后が伊須氣余理比賣であることは明らかだ。綏靖皇后の夫は綏靖天皇であるのは当然である。

神沼河耳の妃の河俣毘賣は師木縣主の祖であり、義兄は沼河耳の乱によって、縣主波延になった人物と記述されている。よって、河俣毘賣と皇女の伊須氣余理比賣とは別の人物である。

本来、神武天皇の長男である日子八井が天皇の後継者であるべきだったが、彼は何らかの理由で後継者から脱落した。伊須氣余理比賣が嫡后だったのだから、日子八井初代綏靖天皇の皇后の伊須氣余理比賣を當藝志美美が奪ったのだろう。そのため、當藝志美美が神武天皇の妹阿比良比賣の子として皇位を継承し、「伊須氣余理比賣」綏靖皇后を妃に迎えた。當藝志美美は神沼河耳の助けを借りて皇位を奪取した可能性が高く、神沼河耳の後ろ盾には師木縣主になる一族がいたと考えられる。

天皇の名前には国名が記されることはなく、神武天皇の皇后は媛蹈韛五十鈴命、綏靖天皇の妃は日子八井命の妹(従妹)、比賣多多良伊須氣余理比賣である。伊須氣余理比賣の称号も比賣多多良で、天皇すなわち比賣帯()を意味するのだろう。

2024年10月7日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 葛木氏の神話5 尾張氏と阿多氏

  『舊事本紀』によれば、神渟名河耳と日子八井命は媛蹈韛五十鈴命の子供であるが、神八井耳は含まれていない。すなわち、神八井耳は婿、神八井耳は意富臣の祖であり、尾張氏の祖である。尾張氏の祖先である火明の孫にあたる天村雲の妃が阿俾良依姫であり、阿俾良依姫は阿多君の妹である阿比良比賣の娘と考えられる。 神渟名河耳には一代のズレがあり、媛蹈韛五十鈴命の娘の伊須氣余理比賣の夫が當藝志美美である。その當藝志美美の妹が阿俾良依姫であり、天村雲はその婿である可能性が高い。神阿多都比賣を阿多君の祖とせず、火照を祖としているのは、火明が神阿多都比賣の子ではないためと考えられる。火照は阿多氏を継承しているが、火明は阿多氏ではなく、道姫を妃とした道氏である。

天村雲の母である穗屋姫は、異母妹ではなく異妹であるため、道姫の妹の娘であると考えられる。一世代が数十年でそれを纏めた続き柄なので、兄弟は従弟にあたると考えられる。世代的に道根の妹である道姫は高御産巣日の娘であり、穗屋姫は高御産巣日の孫である。彼女は大物主の妃である三穂津姫と同じ地域の姫と考えられ、大山津見の後裔である阿多君との関係は薄い。火明は『古事記』では兄弟として記述されておらず、迩迩藝と兄弟の『舊事本紀』と一致している。

神阿多都比賣は大山津見の娘で、火明の妃は高御産巣日の娘である道姫であり、接点がないため、火照の妃が高御産巣日の娘であると考えられる。分家の甥である不合命の妃が母妹(従妹)である玉依姫であるため、本家は玉姫、道姫の異母姉妹であり、忌部首の祖である兄の天太玉、名前から大国王(?)と考えられる。国名が付かない玉依姫は大国王朝の姫である可能性が高い。三島溝咋(高御産巣日)の妃が活玉姫と考えられ、子が活玉依姫と2代目高御産巣日、2代目高御産巣日の妃が玉姫すなわち大国王、その娘が玉依姫と美穂津姫に想定できる。

人名と続き柄からこのような想定が出来る。

2024年10月4日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話4 分王朝の依姫たち

 『日本書紀』に記されている綏靖天皇の神沼河耳の親は、火火出見である。火火出見という名は2人存在しており、1人は神吾田津姫の子であり、もう1人は玉依姫の子である。神倭(神屋)王の事代主の妻は玉櫛媛(活玉依姫)であり、綏靖天皇の皇后は伊須氣余理比賣である。このように、依姫は王朝の後継者であり、別の王家の女王となったことを意味する。

火照は番能迩迩藝の長男であり、後継者と考えられ、阿多君の祖である。火火出見の子は、伊吹から流れる川の江の王である不合(吾江津)であり、その王妃は王家の後継者の名を持つ玉依姫である。伊吹山がある米原には天野川河口の宇賀野があり、鵜草の()葺にピタリだ。

『日本書紀』には、火闌降が「吾田君小橋等之本祖」と記されており、『古事記』では、火照が「隼人阿多君祖」とある。これらは、「火」を「ホ」と理解する、九州の速日別国の人物であり、加須屋の海祇の子孫であることを示している。「君」という称号は岐神を意味し、国名が付かない岐神は君子国(三国)の王の天皇である。

『古事記』では、長男が火照、『舊事本紀』では火明が長男、そして『日本書紀』と『舊事本紀』では火明が尾張氏の祖とされている。これにより、火照と火明が義兄弟であることが示唆されている。

また、『舊事本紀』では、火明の孫である天村雲の妃が阿俾良依姫と記されており、吾田君小橋の妹の姻戚であることが分かる。神八井耳は意富臣の祖であるが、大萑朝大臣の意乎巳連は尾張氏であるため、神八井耳と當藝志美美も義兄弟の関係にあると考えられる。それは、阿俾良依姫が阿比良比賣の娘であり、當藝志美美の妹であったと考えられる。すなわち、天村雲は神八井耳と同一人物と考えられる。亦の名の比賣多多良伊須氣余理比賣は天皇阿多君と皇后五十鈴命の娘であり、これらの関係性が当然の帰結である。火明は天皇阿多君の本家阿俾良姫の子の葛木氏と義兄弟の政権中枢の氏族の尾張氏だった。

2024年10月2日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話3 當藝志美美とその家系の謎

  若御毛沼の子の當藝志美美の妃は前王の妃である富登多多良伊須須岐比賣(伊須氣余理比賣)で、彼女は母の三穂津姫がいた穂の国の港、穂門の井州の集落の姫と考えられる。敦賀には井ノ口河があり、事代主の妃の玉櫛媛の名をもつ櫛川が河口にある。

磐余彦の「磐余」は、400年に伊耶本和気が天皇になった場所の宮の名だ。當藝志美美は白梼原に住み、敦賀には樫曲と言う地域がある。天皇は神倭()に住んでいて、その主である天皇は、国名のない女王、つまり比賣多多良伊須氣余理比賣である。「比賣」と「余理比賣」では意味が大きく異なり、「蹈鞴」は帯の意味なのだろう。媛蹈鞴五十鈴命は初代天皇で、その社(八国の代)の隣に建てられた「依り代」である新朝廷の天皇と考えられる。

また、天皇の宮殿は「神倭(みや)」と呼ばれ、国名を必要とせず、縣主も同様で縣主波延は安寧天皇である。比賣多多良伊須氣余理比賣は、綏靖天皇の皇后として記述されており、一代のズレが見られる。

さらに、『舊事本紀』には、事代主と活玉依姫(玉櫛媛)の子が「一男一女兒」を生んだと記されて、天日方奇日方と媛蹈鞴五十鈴命である。媛蹈鞴五十鈴命は「皇后誕生二兒」とあるように二人の子供を生んで、神渟名河耳と彦八井耳が生まれた。

しかし、次妹の五十鈴依姫についても記述があり、数が合わない。これは、神渟名河耳が彦八井耳の義兄弟であることを示しており、神渟名河耳は一代のズレがあるため、當藝志美美が義兄弟であることを意味している。河俣毘賣は、安寧天皇波延の妹であったとされており、神渟名河耳は安寧天皇の世代に属した。富登多多良伊須須岐比賣が伊須氣余理比賣と別人で、彦八井耳は富登多多良伊須須岐比賣の子であるので、彦八井耳も、阿比良比賣の子である當藝志美美も、五十鈴依姫の夫であり、共に綏靖天皇である可能性が高い。

三島溝咋の孫である媛蹈鞴五十鈴命も、富登多多良伊須須岐比賣も、事代主と大物主の王朝の妃になっている。したがって、三島溝咋の子も両王朝と姻戚関係にあったと考えられる。

大物主の王朝は、阿多小椅君の妹の婿が阿多氏を継承し、君は君子国(三国)の姓であり、三国の王であった。この襲名した阿多氏が大物主を継承し、阿田賀田須につながった。一方で、皇后の夫も阿多君であった可能性が高く、天日方奇日方の別名である阿田都久志尼は、阿多君の禰宜であった可能性が高い。

2024年9月30日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話2 大物主

  『古事記』は、大臣の説話集であり、御真木入日子から時期が特定できる歴史が始まる。御真木入日子の時代より前、若日子(若狭彦)の義兄弟である阿遅鍬高彦根の時代より前に、出雲で大乱が起きた。この大乱は、天菩比の侵入から始まり、その後、若日子の子の大国主が大山祇大神の勢力を衰退させた。胸形の神の牟遲、港に天降った津見から主の政権となった。

その結果、君子国の勢力が強まり、神屋楯比賣の子である事代主は、三島溝咋の娘、玉櫛媛(活玉依姫)を妃に迎え、神倭朝廷を開いた。神は月讀、政務は主だったが、大国主(大物主)と事代主の勢力が並び立つこととなった。

神倭朝廷の最高実力者の政大夫である天日方奇日方と宇摩志麻治は、神倭国を統治し、大国主は大物主と呼ばれた。天日方奇日方の後裔である建甕槌は、大物主の勢力と天菩比の後裔の勢力を伯耆以西に追放し、大国主を亀岡の出雲神社に祀った。

『舊事本紀』によれば、大物主の妃は高御産巣日の娘である三穂津姫である。大田田祢古の父の大物主は建飯賀田須だが、建飯賀田須の父大御氣主の妃は大物主の血筋ではない。男系は事代主の血筋なので、建飯賀田須の母である大倭國民磯姫が大物主の血筋、すなわち、三穂津姫の子の血筋と考えられる。

高浜の神、高御産巣日の娘である三穂津姫は、三国の岬の港の姫であり、三方の姫と考えられる。大倭國民磯姫は、世代的にも名前からも大倭帯日子の娘であり、孝安天皇の次の時代である孝霊天皇、葛木朝廷の姫と考えられ、大御氣主が婿入りして大吉備諸進になったのなら、大物主が吉備で生まれ、『播磨風土記』によると、大和三山の争いがおさまって、揖保郡上岡里から阿菩大神は出雲に行った。「カムオカ」は大国主を祀った出雲神社のある亀岡と無関係なのだろうか。神は地名を持って移動する。

2024年9月27日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話1 御井宮の住人

  『古事記』は、葛木氏の意祁王が記述した大臣の史書である。葛木氏の祖である高木神が最初に記述されるのは、若日子の殺害時のことだ。

『古事記』によれば、神武天皇は若御毛沼であり、曾都毘古の東征で伊奢沙和氣大神と御食津大神の名を交換し、伊耶本和気が皇位に就いた。これにより、葛木氏の王祖である御毛(御食)沼から、王祖の立場を継承したことが示唆された。気比は元々日吉神社の場所だった。

葛木の王である葛木彦に賜姓されたのは、孝昭天皇皇后の兄の奧津余曾の孝昭朝大臣だ。また、『古事記』には波延の孫として御井宮の王である和知都美が登場する。そして、『古事記』の波延は国名の付かない縣主すなわち天皇である。師木は少なくとも崇神朝から垂仁朝まで、師木が首都で、首都の王は天皇である。師木縣主になれるのは、景行朝の纏向や政務朝の穴穂に首都が遷って以降である。また、師木縣主の祖は波延ではなく、妹や弟の娘である。

和知都美の娘は蝿伊呂泥と蝿伊呂杼、すなわち、和知都美も波延を襲名した天皇である。つまり、葛木彦は天皇が婿入りした御井宮の住人であり、その御井宮の御井神は大穴牟遲と八上比賣の子で、この時大穴牟遲は八千矛神と言われた。

八千矛は沼河比賣を妃として建御名方を生んだ。建御名方は事代主と共に食国を統治していたとされている。食国の大神は月讀であり、食国の大臣を政大夫と呼び、その政大夫には天日方奇日方と宇摩志麻治、彦湯支、出雲醜がいた。そして、出雲醜大臣は食国の官位でなくなったため、祀るべき大神は食国の月讀ではなくなり、大国で祀られていた多賀の伊邪那岐の娘である天照が大神となった。出雲醜は食国配下の政大夫から、新しい王朝の大臣になって、政権交代が起こった。それを継承したのが葛木彦である。

2024年9月25日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神武東征4 『古事記』と『日本書紀』の暦

  『古事記』には、伊久米伊理毘古や大帯日子や穴穂のように死亡日が不明な神話的な人物と、品陀和気のように歴史的な記録を持つ人物が混在している。帯中日子の崩は息長帯日売の記事に記述されどちらともいえない。このため、おそらく352年十月丁巳朔辛酉(『日本書紀』では前667年)、神武東征が起こり、伊奢沙和氣大神と御食津大神、現代の氣比大神の名前が交換した。御毛沼が追放され、現代の気比で仲国王の太子である豊御毛沼が王位に就いたのだろう。豊御毛沼(品陀和気)が伊奢沙和氣大神であり、その孫である若御毛沼(伊耶本和気)が磐余若櫻宮朝廷を奪ったと考えられる。

『古事記』の日付において、記述場所や品陀和気が32年後の崩から考えて帯中日子ではなく息長帯日売の崩御日と思われる、壬戌年六月十一日である。すると、『日本書紀』どおりなら242年にあたり、神功皇后の崩御は己丑269年、仲哀天皇崩御でさえも200年の庚辰年で、どちらも合致しない。干支は60年周期で繰り返されるため、記録としての有効性を保つには60年以内の間隔でないと意味がない。したがって、推古天皇の崩御が628年戊子の年に起こったのなら、それを遡ることで特定することが可能だ。『古事記』の日付は年月日で記されているが、『日本書紀』の日付は朔の日干支で表されている。つまり、年月日を用いる『古事記』は、日干支を記録しなかった政権下で編纂されたものだ。それに対して、日干支を用いる『舊事本紀』の大連の政権は朔を朔日(1日)の日干支で記録していた。

もちろん、『古事記』の年月日の記述は『隋書』からの影響が考えられるが、それに代わる記録を持っていたと考えられ、墓誌の記録が存在していた可能性がある。日本の羲和は、1年を366日と定めたため、夏至・冬至・春分・秋分からの日数が記録された可能性が高い。『紀氏家牒』には「春秋二百八十余歳」と夏至・冬至で1年を分けて、何回の春秋があったかを記録している。

中国では、頻繁に改朔が行われ、朔が朔日であったり、晦日(最終日)であったりするなど、都合によって月や年が変わることもあった。中国に臣従していた九州の記録も、それに合わせるために変換が必要となった。『日本書紀』を編纂した大伴氏も、中国の朔・晦・元号等の古い記録を保有していたと考えられる。その記録を天日方奇日方の朝廷の暦に合わせたため、歪みが生じた。

2024年9月23日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神武東征3 神武東征と暦の謎

  神武東征は、記録を持つ歴史的な出来事として語られている。『日本書紀』には、最初の日付が「其年冬十月丁巳朔辛酉」「是年也太歳甲寅」とあり、紀元前667年と記述されている。しかし、丁巳朔の実際の日干支は閏11月朔日の日干支であり、冬至が11月にあるため、10月はありえない。これは、閏11月朔日を11月朔日、さらに10月晦日と考えた結果だと考えられる。つまり、この日付の設定は、朔(新月)を晦日と理解する王朝によって記述された可能性が高い。

暦の記録を知らない者が、この日干支を誤って挿入したとは考えにくく、むしろ、九州の王朝では晦日を朔とする暦を使用していたことが推測される。例えば、「三月丁未朔戊申日有蝕盡之」と推古天皇の時代に九州で発生した日蝕は丁未が朔日なのに戊申(2日)と記録されているのは、この暦の理解に基づいているからで、九州の王家の朔は30日目の晦、朔日は次の日、この時2月は29日まで、従って、3月1日は晦日、朔は2日だった。九州の王家は中国の影響で、日干支ではなく日にちを使っていた。

東征は、歴史的出来事として、352年の10月に起こった出来事が挿入された可能性も考えられる。この年には、近江山君が雌鳥皇女から皇位の璽を奪取し、政権交代があった。この時、曾都毘古が13歳で太子になっていたならば、394年に50歳代で薨去したと考えれば年齢的には理に適う。『古事記』には、御真木入日子が戊寅年12月、若帯日子が乙卯年3月15日に崩じたことが記されている。

しかし、息長帯日売の在位は69年間であり、宮は百年、5代程度続き、さらに、彼女の在位期間中に2度の壬戌年6月11日があるため、日付の特定ができない。『日本書紀』によれば、壬戌年は神功皇后の摂政42年目にあたるがそれ以降も生存しており、『日本書紀』とは異なる息長帯日売の姿が描かれている。同様に、仁徳天皇も在位87年間とされ、その期間に2回の年干支が存在し、また、死亡日が記されていない王も存在する。

干支で死亡日を特定するには、在位期間が60年以内であることが必要だ。『日本書紀』と同じ表記名でも、『古事記』の王は異なる王で、『日本書紀』は『古事記』の王の名を使用していることが解る。

2024年9月20日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神武東征2 日向の神話

  倭国が呼んだ虚空津の対馬に対して、近江大津の出身の神子が穗穗手見と考えられる。穗穗手見は曾都毘古の妃の祖神の忍日の子と考えられ、豊国女王豊玉毘賣が妃、そして、玉依毘賣と記述されているが、実際は豊玉依毘賣が曾都毘古の妃の祖と考えられる。自分の国名は省略され、玉依は王の依り代にいる後継者であり、彼女の子孫が2代目曾都毘古の帯中日子の母なのだろう。忍日は紀元前480年頃に伊都の高千穂宮を開き、伍佰捌拾歳後の100年頃に高千穂宮は滅びた。

御真木入日子の宮は『古事記』の壹佰陸拾捌歳(168年)の間、318年まで続いた。伊久米伊理毘古は壹佰伍拾參歳(153年)、大帯日子は壹佰參拾漆歳(137年)、並行して続いた宮の系図である。

屋主忍武雄心が318年戊寅年12月に崩じた御真木入日子と考えられ、伊久米伊理毘古や大帯日子に崩御年の記述がないため、三代目曾都毘古と関連する葛比賣などの系図と考えられる。丹波道主の娘である比婆須比賣は、初代襲津彦の家系、神武東征の協力者は吉備王の若建吉備津日子の娘の伊那毘能大郎女で、神武東征は吉備の力で勝ち取った。

また、虚空津比賣の姉である息長帶比賣の夫の帯中日子の父である小碓は、曾都毘古の名を旧の豊国王である豊(日向)襲津彦から贈られたと考えられる。熊襲の王は熊襲津彦、日向は熊襲、建国だが、建国王の名ならば、建彦すなわち倭建だろう。日向髪長太田根と日向襲津彦は『古事記』に記述されておらず、大伴氏の家系である可能性が高いと考えられる。

同様に『古事記』に記述されない、襲武媛が大伴氏の祖の豊国別の子で、建沼河別の末裔の阿倍氏木事の娘の高田媛は、大伴氏が神武東征で大和に来た時に妃にした姫なのだろう。木事は反正天皇妃の父である。

同様に『日本書紀』に記述されない小碓の妃の玖玖麻毛理比賣が、日向襲津彦の妹か娘と考えられる。これは『日本書紀』の五十河媛と考えられ、伊覩縣主の祖の五十迹手の祖なのだろう。子の足鏡別が、「あし」すなわち安芸の吾神の帯中日子なのだろうか。玖玖は久久能智と同地域の名前である。

2024年9月18日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神武東征1 天津日高の系譜

火火出見は『日本書紀』に記される神武天皇の伊耶本和気、もしくは大伴室屋の祖先であり、火を「ヒ」ではなく「ホ」と読む。伊耶本和気は九州出身の母親を先祖に持つ天皇であったのだろう。だから、海幸山幸の兄弟が描かれた。一方、伊耶本和気の男系の祖先の名は若御毛沼で、名前から気比の王の璽の名を持ち、若国と三国の王であった。彼は現在の気比、旧の伊奢と名を交換した大津の伊耶と考えられる日吉大社(気比社)に居を構えたと思われる。

伊耶本和気は押穂耳、番能迩迩藝、穂々手見から受け継ぐ「穂」、すなわち、尖った岬の住人の分家である。別名は豊御毛沼であり、豊秋津から東征したため「豊」の接頭語が付いた。壬戌年(362年)に崩じた丸迩臣袁祁都比賣を引き継ぐ女王は敦賀に住み、穴門や香椎に斎宮を祀り、初代葛城襲津彦の子の仲国王の妃であった。彼女は大臣を継承したと思われ、伊勢遺跡の女国の統治者であり、石上神宮の統治者である大連と対立していた可能性が高い。息長帶比賣は襲津彦の母の葛城国造の荒田彦の娘の葛比売と考えられ、尾綱根大臣の母も大荒田の娘の玉姫である。

『古事記』には、天津日高日子穗穗手見が天津日高()として、虚空津日高(コ)と併記されている。この説話は後代の中国から伝わった資料で文字を記述している。すなわち、対馬は倭国の領土を意味しており、倭国にとって「高」は「コ()」、天は王を意味するのだろう。中国では天を虚空と呼んだため、この名前は125年延光四年の室見川の永宮政権以降のものである可能性がある。従って、天を虚空と呼ぶ息長帶比賣の妹である虚空津比賣の出身地は対馬と考えられる。息長帶比賣は対馬出身の姫と義姉妹になった。

『古事記』では「日高」を「日子」とせず、「高」を高木神のように「タカ」と使用し、但馬の河神を意味する。虚空津日高は対馬の日神の末裔である加須屋の大神祇や大山祇、高御産巣日を意味するのかもしれない。

2024年9月16日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降7 日臣と襲津彦

火火出見を豊玉彦の宮から新しい領地へ送り届けたのは、一尋和迩であり、神武東征でも曲浦の椎根津彦だった。椎根津彦は後に倭(海士)直、元の首都倭(淡海)の直()、すなわち元天皇である。『日本書記』の尾張大海媛を『舊事本紀』は尾張大倭媛と記述して、倭は淡海である。和迩臣の祖の日觸使王の娘は宮主宅媛で、子が菟道稚郎子なので、宇治川の女王、『梁書』の女国王が後裔だ。そして、曲浦の王の大倭王は大物主の建飯賀田須の兄である和迩君の祖の阿田賀田須がこれによく当てはまる。

日臣には、臣を賜姓した人物が存在することから、高千穂王家の滅亡によって、筑紫の大倭王の臣下、つまり日臣となったと考えられる。『後漢書』に記述される57年の金印は、志賀島の倭奴国を中心とする国の記録、107年の安帝永初元年には「倭國王帥升等獻生口」のように、倭奴国から倭国王が中心の国になった。125年の室見川銘板の「高暘左王作永宮斎鬲延光四年五」に従えば、倭国王が奴国に宮を造っており、すでに伊都の高千穂宮は弱体化していたと考えられる。

大倭王が、東の「拘奴國」を南の「狗奴國」に追い出し、壹国の糟屋を卑弥呼(夏磯姫)に任せた。阿田賀田須の弟の子である大田田祢古の子である大御氣持は、出雲鞍山祇姫を妃に迎え、出雲振根は筑紫国と友好関係にあった。これは、阿田賀田須と出雲氏が東の「拘奴國」を南の「狗奴國」に追い出したからと考えられる。

そして、南の「狗奴國」に対して、周芳の娑麼に住んでいた道臣と、大帯日子とその妃の日向美波迦斯毘賣一族が狗奴国を滅ぼした。安芸は帯中日子が王となり、道臣は諸縣君を、天種子の子である宇佐津は中臣を賜姓された。

日向美波迦斯毘賣は竺紫で生まれた時量師の後裔と考えられ、日向國造の祖である豐國別を生んだ。豐國別は日向髮長大田根に婿入りして日向襲津彦を生み、日向襲津彦の名をもらった葛城襲津彦の子が2代目襲津彦の帯中日子だろう。そして、3代目の襲津彦は酒君を預けられた長江襲津彦なのだろう。妃が諸縣君の娘の日向泉長媛、娘が磐之媛と考えられる。また、日向泉長媛娘の兄弟が諸縣君牛であると考えられる。

2024年9月13日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降6 拘奴国と狗奴国

   忍日は、糸島から志賀島の不彌国まで、『三國志』によれば約5kmで、小舟()で行けたと考えられる。しかし、帰りの航路は異なり、通常数日かかる道のりを高速船によって一日で行ったとされている。もちろん、高速船は存在せず、潮の流れを熟知していた和迩氏が舟を漕いだと考えられる。

彼の目的地は、筑紫から豊玉彦が支配する国で、そこで彼の娘である豊玉姫を妃に迎えた。和迩氏は関門海峡の曲浦に住んでいた人物で、東の「拘奴國」の住人だ。この国は、三身国以前から存在し、アカホヤの時でも胸形以東で生き残った葉木国(速日別国)であり、初代の王は句句廼馳と草野姫だ。

『伊未自由来記』には、大海祇の出身地が加須屋と記述されており、恐らく大海祇は海祇(綿津見)と考えられる。『後漢書』の時代、景行・成務朝の頃には、志賀の高穴穗宮天皇の配下である大倭の王によって支配されていたため、大海祇・大綿津見と記述されたのだろう。

高穴穗宮王は、東の「拘奴國」を南の「狗奴國」に追い出し、但馬から来た天種子は菟狹津媛を妃に迎え、菟狹王になった。菟狹津彦は天種子に宇佐を譲った後、どうなったのだろうか。また、『日本書紀』の一書以外には記述されていない豊玉彦とは誰なのだろうか。

最も合理的な考えとして、豊玉彦は東の「拘奴國」の王である。火闌降は速日別王の豊玉彦の娘である豊玉姫を妃に迎え、菟狹王、すなわち日臣となった。東の「拘奴國」が南の「狗奴國」になった時、菟狹を天種子に譲り、日臣は豊の安芸や瀬戸内を得て、道臣となり、神武東征で道臣は日向の諸縣君になったと思われる。

曾都毘古の妃の祖は筑紫伊覩縣主の祖の五十迹手と考えられる。五十迹手の娘と思われる五十河媛の子は讃岐國造の始祖や播磨別の始祖となっていて、神武東征の結果だろう。大倭王は、阿多君の末裔である大御氣主と、大倭國民磯姫の子である曲浦を統治した和迩君の祖である阿田賀田須と考えている。民磯姫が阿多氏の後継者なのだろう。大御氣主の名を継承した大御氣持は出雲鞍山祇姫を妃にしているので、大御氣主が出雲臣なのだろう。出雲臣の遠祖の出雲振根は筑紫国に従っていた。

2024年9月11日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降5 火遠理と天津日高日子

  火遠理すなわち天津日高日子は二人の人物を指しており、一人は後裔が帯中日子であり、履中天皇に繋がる人物で、高島の王である高木神に婿入りしたと考えられる。『古事記』ではもう一人の火遠理の妃として豐玉毘賣が記述されているが、彼女は速日別の女王であり、この火遠理は豊国王になったと思われる。

襲名した天津日高日子の不合の嫁は玉依毘賣であり、豐玉依毘賣ではない。また、忌部首の祖である天太玉(大国の王)の子は豊王の豊磐間戸と櫛王の櫛磐間戸で、彼らの子に娘がいれば、()玉姫と()玉依姫の可能性が高い。

そして、櫛玉は天皇の政大夫である天日方奇日方が居る国であるため、「櫛」を付けなくても名が理解される。そのような玉依姫に対して大物主や事代主の妃は活玉依姫と記述され、生倉が首都に含まれて玉依姫も継承されたようだ。天太玉は食国の政大夫が統治する神武・綏靖朝廷の時代における食国でない大国の王の大国主と考えられ、大物主の娘も()玉依姫を継承したのだろう。

また、伊都の高千穂の皇子である火遠理は小船で、筑紫の綿津見の国に向かい、豊国王の豐玉毘賣を妃にした。奇妙なのは、綿津見は伊邪那岐が竺紫の日向で生んだ安曇連の祖である斯香神であり、斯香は志賀島、筑紫なのに豊国である。加須屋大海祇、高御産巣日の出身地の速日別国の胸形や糟屋の国が豊国だった。大帯日子の子には豊国別と豊戸別が存在する。

『日本書紀』の一書には豐玉彦が登場し、豊国王の継承者が豐玉姫であることから、一書の豐玉彦は別の国の王になったと考えられる。同様に、宇沙都比古は宇沙都比賣を天種子の妃とし、宇沙を手放した。綿津見の子には宇都志日金拆が存在し、志賀島の分祀で、宇都志(宇津氏)は宇佐の氏と考えられる。すなわち、志賀島から宇佐へ分祀されたと考えられ、宇佐には金丸と日足が隣接して存在している。火遠理は豐玉彦に、そして、後裔は宇沙都比古に、更に安芸王、日向王になった。

2024年9月9日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降4 吾田君の祖

  『日本書紀』には、火闌降、彦火火出見、火明が登場するが、『古事記』では火明が記述されず、火須勢理(褒能須素里)という不明な人物が登場し、火闌降の代わりに火照(ほでり)が記されている。これは、『古事記』が火闌降と火照を同一視し、火須勢理と火明も同じ系統と見なしていることを示唆している。

火照は『古事記』に「隼人阿多君之祖」、火明は『日本書紀』に「尾張連等始祖」と記述されている。『古事記』の火明は『舊事本紀』と同一であり、宇摩志麻治の父であるため、神武天皇の前の世代、事代主と同じ世代ということになる。つまり、『古事記』で襲名した2代目火明が火照の兄弟となり、火明が饒速日の兄弟にもなったことを意味している。『古事記』で尾張連の祖とされる奧津余曾は、葛󠄀木彦と賜姓され、劔根の孫である葛󠄀木氏なので、火火出見とは兄弟氏族の関係である。物部氏と尾張氏も火明以降に尾張氏と物部氏の同祖が出現する関係になると考えられる。

『日本書紀』では、火闌降は『古事記』の火照に該当し、火明が事代主と同世代ならば、火照も火火出見も事代主と同世代と考えられる。そのため、吾田君小橋は火火出見と火明の甥であり、隼人が分家だということになる。火明の孫である天村雲の妃は阿俾良依姫であり、阿多小椅君の妹である阿比良比賣の名前から、天村雲の妃は阿多小椅君の娘か阿比良比賣の娘の可能性が高い。

火明の曾孫である忍日女は、大伴氏の祖である忍日と同一地域(日向湖近辺)の人物と思われ、忍日女の婿となった可能性が高い。しかも、尾張氏の祖の香語山は道日女の子、道氏を受け継いだと考えられ、大伴氏は道臣を与えられる。忍日は九州に渡り、その後裔が日臣として神武東征に加わることになる。つまり、阿多君の娘婿の天村雲の娘の忍日女の婿であった忍日が隼人の祖であると考えられる。

2024年9月6日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降3 海幸・山幸

阿多君の神武朝廷の政大夫である天日方奇日方は、別名を阿田都の久志尼といい、阿は吾国すなわち三国と丹波出雲と但馬を統治する敦賀の櫛川の津に首都を置く食国の神武朝廷の政大夫と考えられる。番能迩迩藝は、大山津見の娘である、子が阿多君の祖の神阿多都比賣を妃にしており、番能迩迩藝の孫が神武天皇になると考えられる。

『古事記』では、高御産巣日ではなく、高木神の娘として萬幡豐秋津師比賣は記述されている。高御産巣日は胸形から分祀されて高浜に来た神であり、高木神は高島の土地神だ。朝廷と同様に、祀られるのは母や祖母の土地神であり、父の出身地の土地神も祀られるが、父の祀る神は時代とともに変化していく。

大伴氏も葛木氏も、高御産巣日の末裔と言われているが、世代が異なる。高御産巣日は胸形出身の神であり、大伴氏は胸形の姫の子孫を意味し、葛木氏は高木神の子孫だ。史書は作成された時代の視点で記述されるため、大伴氏が安芸で高木神の末裔の葛木氏の帯中日子と義兄弟となったと考えられる。

神八井耳は火君、大分君、阿蘇君、そして筑紫の三家連の祖でもあり、九州で倭国の王家の阿知使主と姻戚関係を結んだことが分かる。火國造(火君)の祖は市鹿文、すなわち壹与であり、阿知使主の先祖だ。木花之佐久夜毘賣は大津の佐久奈度神社付近の姫であった可能性がある。大津から九州の王になった。

大山津見の孫、神阿多都比賣の子である海佐知毘古は火照、山佐知毘古は火遠理で、火須勢理には別名がなく、火遠理にはさらに天津日高日子穂々手見という別名が記されている。『古事記』では、火遠理は『日本書紀』で記述されない高日子すなわち高浜か高島の王と述べ、『日本書紀』に存在しない火照に吾田君小橋の本祖と九州の隼人の祖として、隼人になった、すなわち、九州に行ったと述べている。

2024年9月4日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降3 大伴氏の天降

仲国に天降る前にいた猿田毘古が、高天原と仲国の状況を知っていると言う。それに応対するのは、軍を率いる宇受賣で、彼女は宇治の津、大津の神のようだが、草那藝劒を持っていて、その治められる場所は伊勢なので、隠岐→九州とは一致しない。

王の璽は遠岐斯八尺勾璁、鏡、草那藝劒で、草那藝劒は須賀から、最終的には伊勢神宮の倭比賣が持っていた。すなわち、最終目的地は伊勢遺跡の伊勢神宮で、高浜から伊勢神宮への天降りに関する説話であり、和知都美の天降り説話であると考えられる。

これは、尾張氏が伊勢遺跡の伊勢で王朝を開いたという説話を流用したものであると考えられる。笠沙の御前は、伊勢遺跡の隣町である草津に笠山があり、福岡県の御笠はかなり内陸の岬ではなく、伊勢神宮に太い宮柱を建てた説話と考えられる。

それに対して、番を火と記述した火瓊瓊杵は、天の石位、石按比古比売神社や闇見神社がある若狭から、伊都(イツ)能知和岐と壱岐の津へ地を分け入って進み、さらに、海の「ウ」の宇岐士摩(小倉の宇佐の島:?彦島)や蘇理多多斯(?芥屋の大門)を経由して、終着点が日向峠の高千穗宮、高祖神社であったと考えられる。

久士布流多氣は「九州に降った」意味と考えられ、多氣の「氣」は「お化け」の「け」であり、山の「マ」と同じく神を指し、嶽は山を意味するのだろう。芥屋は神の住む家の門、港であり、征服者が文字を変えて「アクタ」とゴミ扱いしたと考えられるが、自分の土地をわざわざゴミ扱いすることはないだろう。

天降りに同行したのは、大伴連の祖である天忍日と、久米直の祖である天津久米で、五伴の天兒屋はおらず、「爲政」を命じられた思金も存在しない。神武東征の「日臣命帥大來目督將」とあるように大來目が同行しており、これは共通している。

天津神(?大津)の神子の美豆別之主は隠岐に侵攻した際に、久米部・綾部・工部・玉造部が同行した。そして、その同族を引き連れて、隠岐の焼火の姫である栲幡千千姫の子が糸島へ天降ったと考えられる。

2024年9月2日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降2 番能迩迩藝

  火闌降は隼人の大伴氏の祖先で、曾都毘古の東征の後ろ盾であり、火明は尾張氏の祖だ。意乎巳連(仁徳朝の大臣)から大臣位を『古事記』の神武の去來穗別(豐御毛沼)と『日本書紀』の神武の諸縣君(火火出見)が奪った。『古事記』の説話では、番能迩迩藝と天火明は兄弟だが、火を「番()」と読んでいない。火明の火は番や穂と書いていないので、「ヒ」と読むべきなのだろう。

天降説話のモデルは、天兒屋が三国から但馬へ、天種子が但馬から宇佐、そして安芸へ天降った説話である。萬幡豐秋津師比賣の子で、萬と呼ばれた土地から来た、安芸で祀られた姫の子と共に、である。

これに対して、『舊事本紀』では共に、天忍日は「葦原中國」で「立天孫御前爲先駈者也」とあるように、吾達の土地の仲国を、大來目を率いて先頭に立って支配したのが大伴氏の祖である天忍日と記述する。天忍日は美豆別之主が久米部を率いているので、美豆別之主の将軍の後裔だった可能性が高い。

そして、於国の氏族で、高御産巣日の娘である焼火の姫、栲幡千千姫の子が火瓊瓊杵である。火瓊瓊杵は伊都の高千穂に向かって、高千穂王朝を開いた。

天照大神の神子は正勝吾勝勝速日天忍穗耳であり、三国の官位を持つ於国に賜姓された、三国配下の加須屋大海祇の後裔の王と考えられる。

天津日高日子番能迩迩藝命、命は天皇尊の配下の官位で、大津出身の「高日子」と高浜王、高御産巣日神の婿で、二岐の命なので、速日国から天降って敦賀と若狭の王と名乗った饒速日と同地域の王である。「高」は高木神・高比賣の「高」で、「コ」と読ませていない、『古事記』の「常識」と考えられる。

2024年8月30日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降1 天降った場所

  大国主は支配地を伯耆まで拡げ、胸形の多紀理毘賣を妃にして大山津見の孫の奈賀命に隠岐を統治させ、丈夫国と友好関係を築いた。しかし、天照大御神は、大国主の力の源泉である大山津見を滅ぼし、出雲氏は亀岡の出雲神社周辺へ追い出された。大国主の別名である葦原醜雄を「出雲醜」と解釈し、出雲醜大臣すなわち大国主を追放したと考えた。

次に、帯中日子の背景である仲国の建国説話が始まる。正勝吾勝勝速日天忍穗耳が目指す葦原醜雄の国の「葦原中國」、天照大御神の孫である番能迩迩藝が目指す「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國」は、豊国の吾達(吾氏)の土地神の我国(吾岐)の神の岬の国である。吾氏の土地は国中にあり、その一つが豊国の安芸、その一つが豊国ではない仲国である。

「長」は那珂川の港か、五百は五百年続いたという意味かもしれない。胸形の大山津見を後見する王朝の力を弱め、出雲醜大臣を追放したのが前477年頃で、この時高千穂宮が出来れば、「伍佰捌拾歳」とあるように、580年後は西暦100年頃、「倭國王帥升等獻生口」は107年の事で、倭国が高千穂宮王朝を滅ぼしていた。125年(延光四年)の永宮は訓読みなら「ナガノミヤ」は「一國之魁帥」の奴国にいる壹国女王の夏磯姫が造ったのだろうか。物部君の祖の物部夏花が『後漢書』の邪馬臺国の大倭王だろうか。

『日本書紀』での火瓊瓊杵の説話では、火を「hi」ではなく「huǒ」と理解する人々の説話が語られる。この説話では、天(天草や五島)に住み、燕や漢、魏に臣従してきた倭人や、聖人の熊襲(くまそ)に関する説話が含まれている。これは大伴氏や曾都毘古の母系の人物に関する説話である。

火闌降と火火出見、火明は「ホ」と読むなら九州の人々と解り、神武天皇の名は火火出見と記述され、火火出見王朝の子が去來穗別、履中天皇であったことが解る。『日本書紀』は雄略天皇、大伴氏が記述した史書なので、「ヒ」ではなく「ホ」と読むべきなのだろう。

2024年8月28日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 国譲り4 国譲りの結果

  事代主朝廷の最高実力者である政大夫の宇摩志麻治は、「奉齋大神」として、大神君の祖である天日方奇日方が祀る神に奉斎した。彼の子の彦湯支もまた最高実力者の政大夫となった。「食國政大夫者今大連大臣」とあるように食国の政大夫は大臣と同等なので、彦湯支の子の出雲醜が政大夫ではなく大臣なのは、食国の神ではない、大国の大臣(大国主)であることを示す。大国主は食国の官位、安寧朝まで、名目上隠岐の支配下だったことを示す。食国を離れた出雲醜が大臣(大国主)になれたのは、母の出雲色多利姫が建比良鳥から継承された大国主の娘だからなのだろう。大国主が事代主から政権を取り戻したことを意味する。

国譲りは、懿徳朝が終わる紀元前477年頃に起きた出来事だった。懿徳朝大臣の出雲醜は倭志紀彦の妹である真鳥姫を妃に迎え、大木食を生み、安曇川から大国の中の木国に遷った。そして、出雲醜は孫の建甕槌によって亀岡の出雲神社の地域に隠居させられた。建甕槌は伊勢幡主(伊勢神麻績連の祖の八坂彦、後に八坂入彦が婿入りする)の娘である賀貝呂姫を妃にして、布都御魂は伊勢遺跡がある野洲の伊勢神宮に祀られた。

建甕槌の曾孫の阿田賀田須は大倭國民磯姫を引き継いで阿田氏を継承し、後裔は和迩君である。そして、弟の建飯賀田須が迦毛大御神の後裔の大物主である陶津耳の娘の鴨部美良姫に婿入りして大物主を継承した。

大物主の妃の鴨部美良姫は活玉依毘賣と記述された。事代主の妃は『舊事本紀』が活玉依毘賣で大物主の妃は三穂津姫、『日本書紀』事代主の妃が玉櫛媛、『古事記』の大物主の妃は勢夜陀多良比賣で、全て三嶋溝咋(高御産巣日)の娘で大国主(大物主)一家の系図で、大物主は一世代後だ。

『古事記』は大臣の史書であり、意富臣の始祖は神八井耳とされている。これは「井宮の三国の神」を意味する。つまり、朝廷の神倭()を淡海に遷して継承した三国の井宮、御井宮の和知都美が国譲りで皇位を継承したことを示している。

その継承者である娘たちの蝿伊呂泥と蝿伊呂杼は孝霊天皇の妃となった。すなわち、懿徳天皇から孝安天皇までの間、『日本書紀』の皇后が葉江の娘であったことから、淡道の御井宮で葉江朝廷が続いていたことを意味する。

2024年8月26日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 国譲り3 大国主の朝廷

  『舊事本紀』によると大国主の別名である大物主の妃は高浜の神と考えられる高御産巣日の娘、三穂津姫である。『古事記』では高御産巣日は三島溝咋、妃の三穂津姫は勢夜陀多良比賣である。国譲りが行われた場所は小浜で、事代主が薨じた場所は三穂之碕(御尾前)である。これらの神々は穂()と言う地域で活躍した。

大物主の妃である三穂津姫と同じ地域の姫の穂屋姫(同世代?)は、高倉下の妃であり、これらの地域の建甕槌、劔根、高倉下が大国主(大物主)から国を譲りうけた。三穂は「御尾」すなわち「三国の尾」、後の「三八()国の尾」と考えられ、高浜には「宮尾」があり、産霊神社が存在している。

国譲りは、高御産巣日(?三島溝咋)と天照大御神(?髙照光姫)が子供たちに実行させたものだった。大己貴から天菩比、その子の建比良鳥が大国主を引き継ぎ、すなわち、大背飯三熊之大人は大国、伊根の阿蘇湾、三方の日向湖を統治する、三国の小浜の熊野の主、これは、刺國大上神の可能性がたかい。

さらに、大国主の父の若日子(わかひこ)が矢で殺害され、下光比賣は兄の阿遅鍬高彦根と別人である阿遅志貴高日子根を兄と間違えた。阿遅志貴高日子根の妹(伊呂妹)は下光比賣の別名の「高比賣」である。この高比賣は事代主の妹である高照比賣が継承したと考えられ、阿遅志貴高日子根は神屋楯比賣の父である可能性が高い。

そして、刺國大上神の婿の若日子の妻の若比賣(下光比賣)の兄の阿遅鍬高彦根が大山津見であり、その妃が高比賣であった可能性が高く、大山津見の娘が神阿多都比賣である。山津見は神の意味で履歴書、阿遅鍬高彦根は役職名だ。一世代は2から3代以上の親子関係があり、顔が似ると言うことは、互いに従弟同士で婚姻しあっていることが予想される。君子国にとって、三国は接頭語()が付かない「唯の吾国」であり、三国と但馬は併せて「吾田」国とよばれ、事代主朝廷は「吾田の国の朝廷」だった。この世代で王と呼べるのは阿多小椅君のみ、そして、世代の違う胸形君と猿女君、九州の王である。

2024年8月23日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 国譲り2 建御名方

  建御名方は三方の神と考えられ、事代主の子である天日方奇日方も同じ地域の人物だ。『舊事本紀』では、「歸順之首渠者大物主神及事代主神」と記述されて、ここでは建御名方に変え大物主が登場している。しかし、大物主は世代が遅く、大物主の娘の伊須氣余理比賣を妃に迎えたのは、阿多小椅君の妹の子の當藝志美美だ。つまり、大物主は阿多小椅君と同世代であり、阿多君は事代主の子の天日方奇日方が阿田都久志尼と阿多君の政大夫の阿多津の櫛の尼(禰宜)であったため、事代主の子の世代にあたる。阿田の王は君子国三国の君()の阿多君だ。

大物主の娘である伊須氣余理比賣が阿多君の妹の阿比良比賣の子である當藝志美美の妃であるならば、阿多君の娘もまた、大物主の子の夫である可能性が高い。阿多君の娘と考えられる阿俾良依姫は、穗屋姫の子である天村雲の妃であり、穗屋姫は大物主の妃の三穂津姫と姉妹である可能性が高い。

大物主は大国主の家系ではあるが、天日方奇日方の家系でもあり、大国主の孫の世代である。建御名方は、母である髙志の沼河姫の地元の翡翠と黒曜石と縄文土器で栄えた諏訪に逃れた三国の王だ。『舊事本紀』では、大物主が事代主と兄弟関係のある人物として記述され、大物主は事代主の子の世代だった。すなわち、大物主は建御名方の子が義兄弟になり、天日方奇日方とも義兄弟になる家系と考えられる。

大物主の子供は伊須氣余理比賣で、その最後の夫は阿多小椅君の妹の子である。伊須氣余理比賣は天日方奇日方の姪にあたり、阿多小椅君の妹の子の當藝志美美も義理の甥、神沼河耳は阿多小椅君の妹の子の義子だ。神沼河耳は建御名方の母の沼河姫の名を引き継いでいる。阿多君の祖は火照なので、火照が沼河姫の娘婿の建御名方の可能性が高い。