孝昭天皇は、御眞津日子の子と葛木彦の子を婿として迎えたと述べた。『後漢書』には、「國多女子大人皆有四五妻」とあり、大人(日本人が言う主)の男性が多人数の妻を持っていたことが記されている。「餘或兩或三」とその周りの臣下は2・3人。しかし、通常は男女比では男子が少し多いはずだが、『後漢書』の日本では男子が少ないと記述する。これは、多くの男子が他の氏族に婿入りして、外に出、下層民は嫁を得られないためだと考えられる。
『後漢書』には、「歴年無主」とあり、王は主、また、「卑彌呼年長不嫁事鬼(国)神道」、卑弥呼は嫁がず鬼国(木祖を祀る国)の国神を祀る神子(禰宜)だったことが記されている。古代の皇后は、子を産む神と見なされ、氏族を維持する重要な役割を果たしていた。氏族を存続させるためには、主(縣主)の后(神)の長男・長女と、后の兄弟の使主(臣)の長男長女が婚姻関係を結ぶ。后の娘は使主の長男を迎え、その後も従兄妹の間で婚姻が続いたと考えられる。同じ宮、同じ集落内での婚姻である。
こうして、氏族の長男は、次世代の氏族を維持するための婚姻相手となり、次男以降の男子は他の氏族に婿入りして新たな近縁氏族を形成していく。しかし、全ての男子がこのように婚姻できるわけではなく、多くの男子は氏族を離れ、結果として男子の数が少なくなったと考えられる。
葛木氏と波延の家系は、長い間、婚姻関係を保ち続けた。しかし、同族間で婚姻が続けば遺伝的な問題が生じ、男子が育ちにくくなる。そこで、婿入りを通じて他の氏族と次女との婚姻関係を結ぶことで、氏族の存続を図る。それが、依姫のような波延某弟による孝安王朝の相続である。
孝昭天皇の次女に孝安天皇が婿入りし、これによって葛木の掖上から同じ葛木の秋津嶋宮に首都が遷された。同様に、孝元天皇も懿徳天皇と同じ氏族の軽宮に婿入りし、氏族を存続させた。これにより、内色許賣が懿徳天皇と同じ氏族に属していたことが示されている。これは、男系の王朝交代である。
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