孝安天皇、彦國押人は、姪の大倭帯日子國押人の娘である押媛を妃に迎え、孝霊天皇の皇后となる細比賣を産んだ。また、大倭帯日子國押人は孝安天皇の娘、忍鹿比賣を妃にし、孝霊天皇、日子賦斗迩を産んだ。勿論、83年も王朝が続いているので、互いの婚姻で氏族を存続させて、彦國押人も大倭帯日子國押人も4代程度、押媛も忍鹿比賣も両家の娘の従妹である。前項の氏族間の婚姻制度そのもので、葛木日子と師木日子の主導権争いを伴う氏族の維持である。
『日本書紀』では、孝安天皇の妃は磯城縣主の葉江の娘や十市縣主五十坂彦の娘として記されている。また、『古事記』では孝霊天皇の妃も十市縣主の祖、大目の娘であるとされている。このような経緯で、葛木氏の大倭帯日子は、天皇縣主波延朝廷の娘である忍鹿比賣を妃にし、その息子の日子賦斗迩が葛木氏の孝霊天皇として即位したと考えられる。
すなわち、十市縣主になっていない、天皇縣主大目の跡継ぎの長女は皇位を奪われ、十市縣主に賜姓された。後継者が阿禮比賣だったのだろう。また、首都が葛木なのだから、葛木氏が優位になるのは当然の帰結である。
その十市縣主の祖の縣主大目の娘の細比賣を孝霊天皇は妃に迎えた。天皇が細比賣に婿入りしたのに前天皇が十市縣主になったのは、春日千千速眞若比賣の住む黒田に遷都したからだろう。長浜には春日神社があり、木之元に黒田があり、黒田神社がある。黒田廬戸宮によく合致する。
後の十市縣主の皇子は建斗禾と妙斗米と考えられ、彼らの父である天戸目の妃は葛木避姫である。孝安天皇の首都、婿入り先が葛木の室の秋津島、押媛が葛木彦の子の日本足彦國押人の子であるため符合する。すなわち、天戸目が孝安天皇であったことが解る。この後、また師木が首都になるということは、師木日子の末裔が妃になって、皇位を奪取することを意味する。それが意富阿麻比賣で、師木宮の皇后である。
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