比古布都押之信の妃である葛城の高千那毘賣が登場した後、362年に薨じた息長帶比賣の母である高額比賣までの間、葛木氏の記述が欠落している。『紀氏家牒』には、紀武内宿祢が紀伊国造である莵道彦の娘の子供として紀氏を名乗ったと記録されている。
紀氏は「歴事六代君」と開化、崇神、垂仁、景行、政務、仲哀の6代の天皇に200年頃まで仕えた。紀氏はその後、「凡春秋二百八十余歳家大倭国葛城県」とあるように、春秋280回、つまり約140年にわたって大倭葛城縣に340年頃まで居住したと考えられる。彼の住んでいた大倭国は、『紀氏家牒』が清寧天皇以降に記述されたのだから大倭は大和、その大和の葛城地方に140年間宮を持っていたようだ。つまり、紀氏は淡海(近江)にある紀里から木国を経て大和の葛城に移り、後に平群県の紀里に居住し、さらに紀伊国に移った。紀里という名を持ち歩いた。
葛木では、帯中日子の子の394年に崩じた襲津彦が、葛城国造荒田彦の娘・葛比売の子として生まれた。すなわち、品陀真若が応神天皇で、襲津彦が品陀和気と思われるので、362年に薨去した息長帯比賣は葛比売であり、その母が葛城の高額比賣だったと考えられる。襲津彦の妃は、大伴氏の孫と思われ、『日本書紀』で日向を名乗る泉長媛の可能性が高い。子が大葉枝、小葉枝と安寧天皇波延の名を引き継いでいるので、姉妹に婿がいるのだろう。それが、襲津彦の娘の石之日賣と髪長比賣、孫は石之日賣の子の伊耶本和気天皇である。幡日之若郎女は長男が日向諸縣君に婿入りしたと考えられる。
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