美豆別主は、於漏知と友好関係を築いていたが、天菩比の若狭侵略によって出雲で大乱が発生し、大山祇大神の勢力が衰退した。その結果、大国主の孫、阿遅鍬高彦根の子である奈賀命が食国の王位を奪い取った。この情勢に対抗して、天津國玉の子である若狭日子は、大国主と多紀理毘賣の子である阿遅鍬高彦根の妹、下光照比賣に婿入りして、大国主を継承して若狭王となった。
下光(照)比賣は大国主の娘であり、その子も大国主を襲名したと考えられる。若日子の父の天津國玉は天津神の末裔(御子)、やはり天津神の御子である美豆別主と同祖の同世代である。前王家の沖津久期山祇の海部首は阿曇首に姓を変え、筑紫で生まれた綿津見の子の宇都志日金拆に婿入りして志賀島に移住して、綿津見を祀っている。また、美豆別主の前の世代と思われる八束水臣津野命は国引きに速日別国も含む三身国の協力を得ているので、天津國玉もその近辺の出身だと推測される。
美豆別主の祖神である天祖天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊は、久米部の祖神として隠岐で祀られたと『伊未自由来記』に記されている。また、斯香神を祀る阿曇首と共に筑紫に降臨した可能性が高い。美豆別主は、奈賀命によって滅ぼされたが、久米部の祖神となり、後に伴首と賜姓された。出雲の大乱は丈夫国、周饒国の力が衰え、君子国と大人国の勢力が強まった。
美豆別主は分祀され、久米部を率いて息長足姫に兵船の管理を任された。後に、この美豆別主の分祀の後裔は、磐余稚櫻宮の時代に大伴部首に賜姓された。これにより、大伴氏は高千穂宮への侵攻と、362年に崩じた息長足姫との東征を通じて大伴連となったことが示されている。
つまり、美豆別主の分祀を祀った大伴連の祖の天忍日が伴首を引き連れ、筑紫の日向の高千穗の久士布流多氣に天孫降臨を行った迩迩藝命であった可能性が高い。
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