2024年12月27日金曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話11 二重権力

  大臣の就位は、出雲色が懿徳2年の遷都後すぐに、出石心は孝昭天皇の治世の初年に大臣に就位しているが、内色許男は、恐らく、孝元8年に2代目が皇位継承した時に大臣となっているようだ。また、同時に大綜杵が大祢になって、大祢の名は安寧4年に出雲醜が政大夫に就位した時、初めて侍臣となって出来た。大祢は皇后()に仕える、神に準ずる人物であると考えられる。

懿徳天皇の治世には大祢の役職が存在しないため、大臣がその役割を兼務していたようだ。大綜杵も同様に、開化天皇の治世8年に大臣に就位しており、二名の武建と大峯が大祢となっている。これは皇后が二人いて、朝廷が分裂していたことを示唆している。大綜杵は内色許男が大臣に就位した時に大祢になっており、物部氏にも二重権力が生じたと考えられる。

また、穂積臣の祖の子孫として若帯日子の義父の建忍山垂根が存在する。彼の娘である弟媛(『古事記』では弟財郎女)は阿波君の祖である息長田別を生み、その子が杙俣長日子、その子が飯野眞黒比賣、その子が須賣伊呂大中日子、その子が迦具漏比賣だ。ところが、迦具漏比賣は先祖返りして、若帯日子の親の大帯日子の妃となり、彼女の子供が大江王、その子が大中比賣、その子が仲哀天皇の子の香坂王と忍熊王だ。忍山垂根の後裔が忍山垂根の義兄弟というのは矛盾している。

この建忍山垂根は、世代的に見ても成務天皇や倭建の義父の世代である。それなのに、迦具漏比賣の夫の大帯日子より前の人物では矛盾しているが、景行時に迦具漏比賣、成務時に大江王、仲哀時に大中比賣は世代に矛盾はない。迦具漏比賣以前を遡ると、景行時に迦具漏比賣、垂仁時に須賣伊呂大中日子、崇神時に飯野眞黒比賣、開化時に杙俣長日子(武建大尼)、孝元時に息長田別(内色許男)、孝霊時に弟媛(大水口の娘の坂戸由良都姫)、孝安時に建忍山垂根(大水口)と考えれば合理的である。ここでも、二つの勢力が残した系図を合成しており、物部氏に二つの権威があった。

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