2024年12月20日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話8 王朝の皇位継承

孝昭天皇の妃は、奧津余曾の妹である世襲足媛だった。つまり、孝昭天皇である出石心は奧津余曾と義兄弟の関係にあった。『古事記』では、孝昭天皇と同時代の多藝志比古について記述されている。この多藝志比古は葛木氏の項目で言及した、天忍男と考えられる。また、天忍男の兄が天忍人で、その妃は異母妹である葛木の出石姫(角屋姫)であった。すなわち、天忍男の妃の賀奈良知姫と出石姫と姉妹である可能性が高い。『古事記』では、多藝志比古が御眞津日子の兄弟として描かれ、出石姫は孝昭天皇の皇后である世襲足媛である可能性が高いと考えられる。

もし、葛木の池心宮の出石姫の夫が出石心であり、彼が天皇であったならば、地名「出石」と「心」宮の名を持つ天皇であることが理に適っている。淡海の葛川近辺に読みは異なるが小出石越えや小出石橋がある。

在位83年の皇位は4〜5代にわたって続く。世襲足媛の子は波延の娘に婿入りし、後に倭国豐秋狹と呼ばれた、秋津島に婿入りして王朝交代と2代目以降の天皇は波延の娘婿であったと考えられる。そして、その娘婿が奧津余曾の皇子であった可能性が高い。奧津余曾は『舊事本紀』によれば大連や大臣であったことから、この時期に権力の移動があったと考えられる。すなわち、奧津余曾・葛木彦の皇子と世襲足姫の娘との婚姻による継承で、秋津島に住む波延の分家の娘の押姫に婿入りして王朝交代が起きた。

また、『舊事本紀』では出石心が出雲醜の兄弟と記述されているが、懿徳天皇の義兄弟である師木津日子が出石心に該当する。しかし、出石心が孝昭朝の大臣であることを考えると、2代目の出石心も存在し、孝昭天皇の世代で2代目の出石心として和知都美が孝昭朝の大臣、すなわち天皇になった可能性が高い。

孝昭天皇・和知都美の後継者が蝿伊呂泥と蝿伊呂杼であり、前代の安寧天皇(縣主波延・彦湯支)の継承者も波延の娘婿の懿徳天皇が蝿伊呂泥か蝿伊呂杼であった。安寧・懿徳の王朝は40年弱の期間なので、初代の王と皇太子の2代が天皇の可能性が高い。すなわち、天皇の妃が波延の娘、皇太子も波延の娘の子であった。

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