2024年12月18日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話7 娘婿による皇位継承

懿徳朝の大臣である出雲醜の後継者は、娘の沙麻奈姫の婿である建飯勝だった。しかし、彼の孫である建甕槌と、劔根、高倉下らによって大臣の地位が奪われた。そして、彼らが奪った大臣の地位を継いだのが、孝昭朝の大臣である出石心である。つまり、出雲醜の時代から、政大夫として唯一無二の最高権力者が食国の政大夫から大国の大臣の地位に就き、唯一無二の大臣の出雲醜が懿徳天皇と後代に呼ばれ、その次の大臣の出石心が孝昭天皇と後代に呼ばれたと考えられる。その為、出雲醜と出石心が兄弟として、世代を被せた。

出石心の母、恐らく義母は川枯姫で、妃は新河小楯姫だ。これに関連する神社として、野洲川沿いにある川枯神社と新川神社が挙げられる。川枯神社は甲賀にあり、現在では川枯姫を祀る八坂神社に合祀されている。また、建甕槌は伊勢主幡の娘である賀貝呂姫の婿になり、伊勢の神麻績連の祖である八坂彦は尾張氏である。興味深いのは、幡(ハタ)と波延(ハエ)、田と江が違うだけの名前の類似や、孝昭天皇の皇后の兄が尾張氏の祖であり、後の時代に八坂入彦が生まれたことが偶然とは思えない点だ。

そして、建甕槌が妃の出身氏族の尾張氏に皇位を譲るのは理にかなっている。新川神社は、甲賀から下流に遷された神社であり、小楯姫を祀っている。川枯神社は水口にあり、出石心の子の名が大水口であることも偶然とは思えない。そして、和知都美がいた御井宮のあった場所が伊勢遺跡の伊勢と考えられる。

さらに、師木津彦は懿徳天皇との姻戚関係を結ぶことができなかったため、曲峽宮を離れ、川枯姫の宮の小楯姫に婿入りしたと考えられる。師木津彦には2人の子がいたが、そのうち1人は不明だ。しかし、跡取りの姫は川枯神社と同じ地域にある新川の小楯姫を襲名した姫であった可能性が高い。波延の故地である葛木の池心宮には和知都美が婿入りし、出石心大臣となったと考えられる。池心宮の名も池の「心宮」とも読め、出石心が心宮王のように記述され、無関係とは考えられない。

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