2024年12月23日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話9 「一書云」の意味

  『日本書紀』によると、安寧から孝安天皇にかけて、懿徳天皇を除き、すべての天皇の皇后の父は「波延」であり、懿徳天皇は波延の弟だったと記述されている。これは懿徳天皇が分家にあたり、他の天皇は波延の娘婿が皇位を継承したことを示唆している。

安寧天皇の治世38年間では、初代安寧は波延であり、皇后は神氏の渟名底仲媛だ。波延の妹の子であり、また、娘婿である玉手見が2代目の天皇になった可能性が高い。それが、『日本書紀』の推定が「一書云磯城縣主葉江女川津媛」で、川津媛が阿久斗比賣であった可能性が高い。王朝は娘が相続し、もし分家した娘以外に相続する直系の娘がいなければ、王朝の交代が起こる。

綏靖天皇の治世33年間では、初代天皇は日子八井で、皇后は五十鈴依媛だ。2代目の天皇も皇后は変わらず當藝志美美だ。磯城縣主の阿多氏の久流久美は日子八井または當藝志美美のいずれかであり、その娘婿が彦湯支だ。彦湯支の妹は河俣毘賣、彼女の婿が3代目綏靖天皇の沼河耳だったと考えられる。これが、「磯城縣主女川派媛春日縣主大日諸女糸織媛」の記述と考えられ、子供が春日縣主に婿入りしたと考えられる。

懿徳天皇の治世34年間では、初代懿徳天皇である出雲醜の妃は、倭志紀彦の義妹である真鳥姫(天豐津媛)だ。出雲醜は波延の男弟(もしくは義理の妹婿)であり、その名は猪手と呼ばれたのだろう。2代目懿徳天皇は、猪手の娘である泉媛の婿で、もし泉媛が沙麻奈姫であれば、建飯勝が候補の一人だ。この建飯勝が、「磯城縣主葉江男弟猪手女泉媛」の記述に該当し、皇子が師木縣主の祖の賦登麻和訶比賣の娘、「磯城縣主太眞稚彦女飯日媛」と鋤友の娘に婿入りした可能性がある。

同様に、初代孝昭天皇は波延の和知都美であり、皇后は世襲足媛だ。娘婿である蝿伊呂泥は奧津余曾の子供であったと考えられる。この関係が「磯城縣主葉江女渟名城津媛」の記述に合致し、これらの関係が83年間にわたって続いていたと考えられる。

孝安天皇も「磯城縣主葉江女長媛」とされており、波延の朝廷が存在していたが、王朝は蝿伊呂杼、すなわち、分家した次女の婿に交代したと推測される。

波延の朝廷は「十市縣主五十坂彦女五十坂媛」と十市縣に皇子が婿入りすることで終焉を迎えた。孝霊天皇は波延の朝廷の分家である十市縣主の祖の娘を妃とし、新しい王朝を開いた。この新しい王朝が「春日千乳早山香媛」と春日縣主に婿入りした阿多氏の後裔の王によって始まったと考えられる。

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