2024年9月25日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神武東征4 『古事記』と『日本書紀』の暦

  『古事記』には、伊久米伊理毘古や大帯日子や穴穂のように死亡日が不明な神話的な人物と、品陀和気のように歴史的な記録を持つ人物が混在している。帯中日子の崩は息長帯日売の記事に記述されどちらともいえない。このため、おそらく352年十月丁巳朔辛酉(『日本書紀』では前667年)、神武東征が起こり、伊奢沙和氣大神と御食津大神、現代の氣比大神の名前が交換した。御毛沼が追放され、現代の気比で仲国王の太子である豊御毛沼が王位に就いたのだろう。豊御毛沼(品陀和気)が伊奢沙和氣大神であり、その孫である若御毛沼(伊耶本和気)が磐余若櫻宮朝廷を奪ったと考えられる。

『古事記』の日付において、記述場所や品陀和気が32年後の崩から考えて帯中日子ではなく息長帯日売の崩御日と思われる、壬戌年六月十一日である。すると、『日本書紀』どおりなら242年にあたり、神功皇后の崩御は己丑269年、仲哀天皇崩御でさえも200年の庚辰年で、どちらも合致しない。干支は60年周期で繰り返されるため、記録としての有効性を保つには60年以内の間隔でないと意味がない。したがって、推古天皇の崩御が628年戊子の年に起こったのなら、それを遡ることで特定することが可能だ。『古事記』の日付は年月日で記されているが、『日本書紀』の日付は朔の日干支で表されている。つまり、年月日を用いる『古事記』は、日干支を記録しなかった政権下で編纂されたものだ。それに対して、日干支を用いる『舊事本紀』の大連の政権は朔を朔日(1日)の日干支で記録していた。

もちろん、『古事記』の年月日の記述は『隋書』からの影響が考えられるが、それに代わる記録を持っていたと考えられ、墓誌の記録が存在していた可能性がある。日本の羲和は、1年を366日と定めたため、夏至・冬至・春分・秋分からの日数が記録された可能性が高い。『紀氏家牒』には「春秋二百八十余歳」と夏至・冬至で1年を分けて、何回の春秋があったかを記録している。

中国では、頻繁に改朔が行われ、朔が朔日であったり、晦日(最終日)であったりするなど、都合によって月や年が変わることもあった。中国に臣従していた九州の記録も、それに合わせるために変換が必要となった。『日本書紀』を編纂した大伴氏も、中国の朔・晦・元号等の古い記録を保有していたと考えられる。その記録を天日方奇日方の朝廷の暦に合わせたため、歪みが生じた。

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