火火出見を豊玉彦の宮から新しい領地へ送り届けたのは、一尋和迩であり、神武東征でも曲浦の椎根津彦だった。椎根津彦は後に倭(海士)直、元の首都倭(淡海)の直(王)、すなわち元天皇である。『日本書記』の尾張大海媛を『舊事本紀』は尾張大倭媛と記述して、倭は淡海である。和迩臣の祖の日觸使王の娘は宮主宅媛で、子が菟道稚郎子なので、宇治川の女王、『梁書』の女国王が後裔だ。そして、曲浦の王の大倭王は大物主の建飯賀田須の兄である和迩君の祖の阿田賀田須がこれによく当てはまる。
日臣には、臣を賜姓した人物が存在することから、高千穂王家の滅亡によって、筑紫の大倭王の臣下、つまり日臣となったと考えられる。『後漢書』に記述される57年の金印は、志賀島の倭奴国を中心とする国の記録、107年の安帝永初元年には「倭國王帥升等獻生口」のように、倭奴国から倭国王が中心の国になった。125年の室見川銘板の「高暘左王作永宮斎鬲延光四年五」に従えば、倭国王が奴国に宮を造っており、すでに伊都の高千穂宮は弱体化していたと考えられる。
大倭王が、東の「拘奴國」を南の「狗奴國」に追い出し、壹国の糟屋を卑弥呼(夏磯姫)に任せた。阿田賀田須の弟の子である大田田祢古の子である大御氣持は、出雲鞍山祇姫を妃に迎え、出雲振根は筑紫国と友好関係にあった。これは、阿田賀田須と出雲氏が東の「拘奴國」を南の「狗奴國」に追い出したからと考えられる。
そして、南の「狗奴國」に対して、周芳の娑麼に住んでいた道臣と、大帯日子とその妃の日向美波迦斯毘賣一族が狗奴国を滅ぼした。安芸は帯中日子が王となり、道臣は諸縣君を、天種子の子である宇佐津は中臣を賜姓された。
日向美波迦斯毘賣は竺紫で生まれた時量師の後裔と考えられ、日向國造の祖である豐國別を生んだ。豐國別は日向髮長大田根に婿入りして日向襲津彦を生み、日向襲津彦の名をもらった葛城襲津彦の子が2代目襲津彦の帯中日子だろう。そして、3代目の襲津彦は酒君を預けられた長江襲津彦なのだろう。妃が諸縣君の娘の日向泉長媛、娘が磐之媛と考えられる。また、日向泉長媛娘の兄弟が諸縣君牛であると考えられる。
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