倭国が呼んだ虚空津の対馬に対して、近江大津の出身の神子が穗穗手見と考えられる。穗穗手見は曾都毘古の妃の祖神の忍日の子と考えられ、豊国女王豊玉毘賣が妃、そして、玉依毘賣と記述されているが、実際は豊玉依毘賣が曾都毘古の妃の祖と考えられる。自分の国名は省略され、玉依は王の依り代にいる後継者であり、彼女の子孫が2代目曾都毘古の帯中日子の母なのだろう。忍日は紀元前480年頃に伊都の高千穂宮を開き、伍佰捌拾歳後の100年頃に高千穂宮は滅びた。
御真木入日子の宮は『古事記』の壹佰陸拾捌歳(168年)の間、318年まで続いた。伊久米伊理毘古は壹佰伍拾參歳(153年)、大帯日子は壹佰參拾漆歳(137年)、並行して続いた宮の系図である。
屋主忍武雄心が318年戊寅年12月に崩じた御真木入日子と考えられ、伊久米伊理毘古や大帯日子に崩御年の記述がないため、三代目曾都毘古と関連する葛比賣などの系図と考えられる。丹波道主の娘である比婆須比賣は、初代襲津彦の家系、神武東征の協力者は吉備王の若建吉備津日子の娘の伊那毘能大郎女で、神武東征は吉備の力で勝ち取った。
また、虚空津比賣の姉である息長帶比賣の夫の帯中日子の父である小碓は、曾都毘古の名を旧の豊国王である豊(日向)襲津彦から贈られたと考えられる。熊襲の王は熊襲津彦、日向は熊襲、建国だが、建国王の名ならば、建彦すなわち倭建だろう。日向髪長太田根と日向襲津彦は『古事記』に記述されておらず、大伴氏の家系である可能性が高いと考えられる。
同様に『古事記』に記述されない、襲武媛が大伴氏の祖の豊国別の子で、建沼河別の末裔の阿倍氏木事の娘の高田媛は、大伴氏が神武東征で大和に来た時に妃にした姫なのだろう。木事は反正天皇妃の父である。
同様に『日本書紀』に記述されない小碓の妃の玖玖麻毛理比賣が、日向襲津彦の妹か娘と考えられる。これは『日本書紀』の五十河媛と考えられ、伊覩縣主の祖の五十迹手の祖なのだろう。子の足鏡別が、「あし」すなわち安芸の吾神の帯中日子なのだろうか。玖玖は久久能智と同地域の名前である。
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