神武東征は、記録を持つ歴史的な出来事として語られている。『日本書紀』には、最初の日付が「其年冬十月丁巳朔辛酉」「是年也太歳甲寅」とあり、紀元前667年と記述されている。しかし、丁巳朔の実際の日干支は閏11月朔日の日干支であり、冬至が11月にあるため、10月はありえない。これは、閏11月朔日を11月朔日、さらに10月晦日と考えた結果だと考えられる。つまり、この日付の設定は、朔(新月)を晦日と理解する王朝によって記述された可能性が高い。
暦の記録を知らない者が、この日干支を誤って挿入したとは考えにくく、むしろ、九州の王朝では晦日を朔とする暦を使用していたことが推測される。例えば、「三月丁未朔戊申日有蝕盡之」と推古天皇の時代に九州で発生した日蝕は丁未が朔日なのに戊申(2日)と記録されているのは、この暦の理解に基づいているからで、九州の王家の朔は30日目の晦、朔日は次の日、この時2月は29日まで、従って、3月1日は晦日、朔は2日だった。九州の王家は中国の影響で、日干支ではなく日にちを使っていた。
東征は、歴史的出来事として、352年の10月に起こった出来事が挿入された可能性も考えられる。この年には、近江山君が雌鳥皇女から皇位の璽を奪取し、政権交代があった。この時、曾都毘古が13歳で太子になっていたならば、394年に50歳代で薨去したと考えれば年齢的には理に適う。『古事記』には、御真木入日子が戊寅年12月、若帯日子が乙卯年3月15日に崩じたことが記されている。
しかし、息長帯日売の在位は69年間であり、宮は百年、5代程度続き、さらに、彼女の在位期間中に2度の壬戌年6月11日があるため、日付の特定ができない。『日本書紀』によれば、壬戌年は神功皇后の摂政42年目にあたるがそれ以降も生存しており、『日本書紀』とは異なる息長帯日売の姿が描かれている。同様に、仁徳天皇も在位87年間とされ、その期間に2回の年干支が存在し、また、死亡日が記されていない王も存在する。
干支で死亡日を特定するには、在位期間が60年以内であることが必要だ。『日本書紀』と同じ表記名でも、『古事記』の王は異なる王で、『日本書紀』は『古事記』の王の名を使用していることが解る。
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