2024年9月13日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降6 拘奴国と狗奴国

   忍日は、糸島から志賀島の不彌国まで、『三國志』によれば約5kmで、小舟()で行けたと考えられる。しかし、帰りの航路は異なり、通常数日かかる道のりを高速船によって一日で行ったとされている。もちろん、高速船は存在せず、潮の流れを熟知していた和迩氏が舟を漕いだと考えられる。

彼の目的地は、筑紫から豊玉彦が支配する国で、そこで彼の娘である豊玉姫を妃に迎えた。和迩氏は関門海峡の曲浦に住んでいた人物で、東の「拘奴國」の住人だ。この国は、三身国以前から存在し、アカホヤの時でも胸形以東で生き残った葉木国(速日別国)であり、初代の王は句句廼馳と草野姫だ。

『伊未自由来記』には、大海祇の出身地が加須屋と記述されており、恐らく大海祇は海祇(綿津見)と考えられる。『後漢書』の時代、景行・成務朝の頃には、志賀の高穴穗宮天皇の配下である大倭の王によって支配されていたため、大海祇・大綿津見と記述されたのだろう。

高穴穗宮王は、東の「拘奴國」を南の「狗奴國」に追い出し、但馬から来た天種子は菟狹津媛を妃に迎え、菟狹王になった。菟狹津彦は天種子に宇佐を譲った後、どうなったのだろうか。また、『日本書紀』の一書以外には記述されていない豊玉彦とは誰なのだろうか。

最も合理的な考えとして、豊玉彦は東の「拘奴國」の王である。火闌降は速日別王の豊玉彦の娘である豊玉姫を妃に迎え、菟狹王、すなわち日臣となった。東の「拘奴國」が南の「狗奴國」になった時、菟狹を天種子に譲り、日臣は豊の安芸や瀬戸内を得て、道臣となり、神武東征で道臣は日向の諸縣君になったと思われる。

曾都毘古の妃の祖は筑紫伊覩縣主の祖の五十迹手と考えられる。五十迹手の娘と思われる五十河媛の子は讃岐國造の始祖や播磨別の始祖となっていて、神武東征の結果だろう。大倭王は、阿多君の末裔である大御氣主と、大倭國民磯姫の子である曲浦を統治した和迩君の祖である阿田賀田須と考えている。民磯姫が阿多氏の後継者なのだろう。大御氣主の名を継承した大御氣持は出雲鞍山祇姫を妃にしているので、大御氣主が出雲臣なのだろう。出雲臣の遠祖の出雲振根は筑紫国に従っていた。

0 件のコメント:

コメントを投稿